この世で一番嫌いな音が、一日中鳴っているということが、ほかの人にはわからないのである。わからない。そういう一日が、どういう一日なのかわかってない。わかってない。これ、ほんとうに、常にからだを締め付けられているような状態なのである。圧迫されているような状態なのである。からだをぐりぐりにねじられているような状態なのである。腸がぐりぐりにねじられているような状態なのである。頭をたたかれ続けているような状態なのである。あの、切迫した、気持ちがわかるか。あの切迫した状態がわかるか? からだが、くるしい。ただ単に、「うっさいなぁ」と感じるような音じゃないのである。だから、ぼくは「すぐ隣に幼稚園があるけど、幼稚園の騒音とはちがう」と言っているのに、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音を聞いたことがないやつはわかってないなぁ。きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音なんだよ。そして、相手は、きちがい的な意地でやるけど、やっているつもりがまったくない状態なんだよ。この状態が、成り立っているということは、腹がたつことだ。こんな汚いことをやっているやつが、壁のうしろにいる。自分の部屋の壁のうしろにいる。すぐ後ろにいる。壁がなかったら、すぐそこで鳴らしている状態が見えるんだぞ。そういう距離で鳴らしているんだぞ。ぜんぜん、ちがう。そういう距離で、あの音が鳴っていていいわけがないだろ。これ、佐藤のようなやつは、普通の騒音だと思っている。普通の!騒音だと思っている。「そんなんじゃない」ってどれだけ言っても、わからないんだよな。きちがい家族による、至近距離の、しつこいしつこい、騒音を聞いたことがないやつは、だめだ。経験がないと、ほんとうにわからないのである。きちがい兄貴の態度に関して言えば、きちがい兄貴のような家族が、家族のなかにいない場合は、きちがい兄貴の態度とぼくが言っても、わからないんだよね。どれだけ、不愉快か、わからない。どれだけ腹がたつかわからない。そりゃ、耳が正常なら、絶対にわかることを、わからないまま、やってのける態度は、むかつくだろ。むかつくんだよ。そういうやつが鳴らしている騒音はむかつくだろ。むかつくんだよ。もう、切羽詰まった状態で、教科書を開いて、机の前に座っているという状態が、どれだけ、ひどい状態かまるでわかってない。あの音を聞かされてないかわからならない。あの態度で鳴らしているやつを知らないから、わからない。そんなのが、毎時間、毎時間続いていいわけがないだろ。
絶対の意地で無視して鳴らしているのに、鳴らしているつもりがないなんておかしいだろ。けど、いつもそうなんだよ。毎時間、毎分、毎秒そうなんだよ。どれだけきちがい兄貴に言っても、かわらないんだよ。この態度は、きちがい親父の態度とおなじだ。「うち」にふたりも、こういう人間がいるということがわからない。普通の人にはわからない。普通は、ひとりだっていない。
相手が「やめてくれ、やめてくれ」と絶叫していることを、やっているのに、「やった」ということを認めないのだ。こんなのは、ない。相手が、自分の横で、「やめてくれ、やめてくれ」と絶叫していることを、きちがい的な意地でやっているのに、やったというつもりがないまま暮らしている。こんなのはない。これ、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定するんだよ。で、きちがい的なことをやっているときの態度と、きちがい的な意地で否定するときの態度がおなじなんだよ。これ、ただ単に「態度」と書くと、まるでなにもつたわらないかもしれない。これ、意地がかかっているのである。とりつかれているような態度なのである。だから、とりつかれているような態度で、強引にやったことを、認めないんだよ。とりつかれているような態度で強引に認めない。強引に認めないというのは、ちょっと日本語としておかしい感じもするけど、ほんとうに、そういう態度なの!!
こういう人間が家族のなかにいない人の場合、ぼくがなにを言っているのか、わからない。こういう人間が、うちのなかで、実際にやったことが、こういう人間が、家族のなかにいない人には、まったくわからない。
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「強引に」のあとにはなにか動きがある動作がつづくのが一般的だ。認めるだと、動きがないのでちょっとおかしく感じるのである。グーグルで調べたら六件しかヒットしないので、言い方としては、おかしいのだろうなぁと思う。「強引に認めさせる」だと、動きがあるのでへんな感じがしない。「認めない」のは、状態であって、動作じゃないんだよな。普通の感覚だと。行動主義心理学だと認めないのも、「行動」だ。