これ、ものすごく、うけないし、きらわれるのはわかっているのだけど、「僕はこう感じた」ということを言っておく。実際に、そう感じたことがあるのだから、書いておく。何度も言うけど、これを言うと、きらわれるのだ。憎まれる可能性もある。けど、言っておく。
これ、むかし書いて、顰蹙をかったことなのだけど……。「つらさのつらさがちがう」ということは言っておきたいことのひとつだ。世の中には、「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」ということを言う人がいるのである。けど、そういうことを言う人は、俺とおなじきちがいヘビメタ騒音をあびてない。俺と同じ部屋に一一歳から二〇歳まで住んで、俺とおなじヘビメタ騒音生活をしたわけではない。だから、つらさのつらさがちがう。
今現在働いているのであれば、働ける状態を維持できるぐらいのつらさなんだよ。だから、その人(おまえ)が働いているということは、俺が働けるということの根拠にはならないんだよ。
どうして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するんだ?
どうして、俺が、ヘビメタ騒音の影響で働けないと言ったあとに、ヘビメタ騒音の影響を無視して、「働いている」ということを言って、(自分が)働いているということを根拠にして、(エイリも)働けると決めつけるのか?
どうして、ヘビメタ騒音の数千日を経験してない(おまえ)が、ヘビメタ騒音の数千日を経験してないのに、ヘビメタ騒音の数千日を経験しても、働けると決めつけるのだ?
どうしてだ?
どうしてだ?
おなじじゃない。勝手に、きめつけるな。
これ、みんな、軽く決めつけているけど、ヘビメタ騒音の数千日というのはそういうものではない。ちがうじゃないか。
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きちがい兄貴は、がん無視して、つねに最大限の音で聞いているのだけど、最大限の音で聞いている感覚がないのである。聴覚が正常なら絶対にわかることがわかってないのである。これは、「言えばわかること」ではなくて、「言わなくてもわかること」だ。聴覚が正常なら絶対に、わかることなのである。けど、きちがいだから、感覚器を書き換えて、「わからないこと」にしてしまっている。そうしたら、どれだけ言われたって、わからないままなのである。何千回、何万回、何十万回、「でかい音で鳴らしている」と言われても、わからないのである。本人は、「普通の音」で鳴らしているつもりなのである。頭がおかしいから、そういうことができる。これは、意地悪なことなのである。頭がおかしいから、そういう意地悪なことができる。きったなーーい手段を使って、やりきることができる。「どれだやったってやってない」と本気で思っている状態が続く。こういう人がまわりにいないのである。普通の人ばあい、こういう家族が家族の構成メンバーのなかにいない。なので、こういう家族にやられたことがない。こういう家族が、ずっとずっとずっと毎日、きちがい的な音で鳴らし切るということを経験してない。そういう一日がわかってない。そういう毎日がわかってない。そういう毎年がわかってない。どれだけ、つもるかわかってない。
しかし、だれだって、「つらい経験」はある。日本の労働現場を考えると、くるしいこともあるだろう。けど、ちがう。程度がちがう。けど「程度がちがう」ということを言うと、たいていの人はおこる。「俺だってつらい思いをしている」「ヘビメタ騒音なんかより、つらい思いをしている」「それなのに、なんだ!!!」という気持になるのである。けど、働いているなら、働いている状態を維持できるということなので、働けるということだ。つらさがちがう。
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「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音生活を経験してないのである。そして、家族のなかにきちがい兄貴のような家族がいない人なのである。だから、きちがい兄貴のような家族にやられたことがない。
「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、きちがい兄貴のことはせめない。通勤して働いていないエイリのことはせめるけど、きちがい兄貴のことは、せめない。これは、共通している性格だ。ほんとうに、「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、きちがい兄貴のことを問題にすることがない。せめない。せめるのは、働いていないエイリのことだけなのである。目の前のエイリのことだけなのである。
「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人にとっては、でかい音で、きちがいヘビメタを鳴らし続けること……よりも、働かないことのほうが、道徳的にゆるせないことなのである。たとえ、エイリが働かないことで、自分が一切合切、迷惑をこうむらないとしても、「道徳的」にゆるしがたいことなのである。エイリの花のしなかに出てくる「兄」が、エイリが「やめてくれ」と言っているを無視して、きちがい的な意地で、長い時間、長い期間にわたって、ヘビメタをでかい音で鳴らしたことは、「道徳的」に言って、ゆるせることなのである。問題ではないことなのである。こういう感じ方がある。こういう感じ方こそが、道徳的ではない。そうは、思わないか?
大きな悪は無視して、小さな悪を問題にする。あるいは、大きな悪は無視して、悪くないことを問題にする。俺は兄貴の騒音で迷惑をかけられていた。「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、俺が働かないことで、迷惑をかけられてない。(言っておくけど、働くというのは、通勤して働くということだ。そのころは、資本をもたないものが働くには、通勤して働くしかなかった。)ともかく、道徳観について言うなら、その人たちは、みんな、兄貴の悪は問題にせず、エイリの悪ではないことを問題にしたのだ。これが、どういうことだかわかるか? せめているやつら……道徳的に(相手が)働いていないということをせめているやつらには、これがどういうことなのかわかってない。道徳を持ち出すなら、悪をせめずに、悪ではないものをせめている、そいつらが、悪だ。不善をなしている。悪いことをしているうちの兄貴をせめずに、悪いことをしてない俺をせめるということが悪だ。