たとえば、39度のお湯につかっている人が、「45度だと熱すぎる」「熱すぎても快適ではない」「水温と快適さとは関係がない」と言ったとしよう。
ずっと1度の水につかっている人にとっては、39度も45度もつかったことがないので、関係がない話だ。
39度のお湯につかっている人が「快適な温度について」語ったとしても、関係がないことなのである。さらに言っておくと「熱すぎても快適ではない」というのは、正しいけど、「水温と快適さとは関係がない」というのは、まちがっている。
「45度だと熱すぎる」と言っているではないか。関係がないわけがない。どうして、「熱すぎても快適ではない」ということが「水温と快適さとは関係がない」ということになってしまうのか?
水温がおカネで、快適さが幸福度だとする。
「おカネがありすぎても、不幸な人がいる」あるいは「おカネがありすぎると幸福度がさがる(こともある)」ということまでは、わかる。
しかし、「おカネがありすぎると、幸福度がさがるので、おカネと幸福度は関係がない」ということは、まったくわからない。
おカネがありすぎると、幸福度がさがるのであれば、もちろん、おカネと幸福度は関係しているのである。なぜ、これがわからないか?
おカネを、ちょうどいいていど、持っている人が「おカネなんて幸福度とは関係がない」と、おカネをもっていない人に言うのは、問題がある。
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問題なのは、39度のお湯につかれる人にとって、1度の水につかっている人の「つらさ」は関係がないことだということだ。39度の湯につかっている人が「1度の水につかっている人 つらさなんて、自分には関係がないことだ」と言った場合、その言葉の意味は正しいのである。
なのであれば、もちろん、「人に親切にするとしあわせになる」とか「人に親切にすると幸福度があがる」というようなことは言うべきではない。「つらい」状態の人を見すてているのだから、「つらい」状態の人に対して親切にしてない。
「そんなのは俺に関係があることではない」と言って、1度の水につかっている人には、親切な行為をしないのだから、親切な行為をしない人が、「人に親切にすると幸福度があがる」というようなことを言っているということになる。
生まれの格差は、おおきなおおきな格差で、その格差が生み出す、不幸な体験は、毎日毎日、つもっていくものなのである。生まれの格差・下の人は、毎日毎日、不幸な出来事を経験することになるのである。
それは、その人がもっている「幸福感に」影響をあたえる。
これは、でかい影響をあたえると言っていい。
なんでなら、きれいごととはちがって、実際に生じていることだからだ。実際に生じていることを、感覚認知しているわけだから、実際に生じてないこと……えそらごとの話……よりも、実際に生じていることが、その人の幸福感にでかい影響をあたえる。
このでかい影響をあたえる部分に関しては、「そんなのは差がない」「あったとしてもたいした差じゃない」ということを言って、無視する人が「親切な人である」はずがないのだ。
しかし、そういう人でも、「小さな親切」は自分の身の回りの人にできる。身の回りに生まれの格差・下の人がいなかったら、当然に、小さな親切も、生まれの格差・下の人にはしないということになる。
その人は、生まれの格差・下の人にかんしては、小さな親切もしなければ、大きな親切もしないということになる。無関心なのである。
大きな親切というのは、その人の状況をかえてしまうような親切だ。水温のたとえを使うのであれば、39度の人が、1度の人に対して、39度のお湯をあたえるということだ。
けど、そうなると、39度の人が、今度は、つめたい水につかることになるのである。なので、大きな親切は、なしがたいのである。
39度のお湯につかっている人にとっては、1度の水につかっている人の話は「えそらごと」の話なのである。いっぽう、1度の水につかっているひとにとっては、39度のお湯につかっている人の話は「えそらごと」の話なのである。現実的ではない話なのである。
状況がちがうのだから、そうなる。生まれてからずっと体験していることがちがうのだから、そうなる。
実際に発生する出来事が、その人の「幸福な感じ」や「不幸な感じ」を決定しているのである。「えそらごと」のいい話が、その人の、「幸福な感じ」や「不幸な感じ」を決定しているのではない。
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おカネと幸福度は関係があるから、おカネがありすぎると幸福度がさがるのでしょ。どうして、関係がないということになってしまうのか?