ヘビメタ騒音でくるしい。みんなわかってない。どのみち、みんな、わかってない。わかるわけがない。わかるわけがないけど、ヘビメタ騒音がなかったやつらが……人生のなかで、きちがい家族によるヘビメタ騒音がなかったやつらが……ヘビメタ騒音のことを無視して、あるいは、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、ガタガタ言うのは、気にくわない。ほんとうに、自分だって、あの状況で七年間暮らしたら、通勤通学ができないからだになるのに、それがまったくわかってない。俺が、通勤通学ができなくなったと言ったら、できなくなったということなんだよ。ヘビメタ騒音『で』できなくなったと言ったらヘビメタ騒音『で』できなくなったということなんだよ。それを理解しないで、えらそうなことを、ぬかしやがって……。
ヘビメタ騒音の影響を過小評価するな。おまえが過小評価できるのは、経験してないから。きちがい兄貴というハンディがないから……。きちがい的な兄貴というハンディがなければ、なんとだって言える。きちがい兄貴が鳴らしているときの意識状態や、きちがい兄貴が、「鳴らすな」と言われたときの意識状態なんて、ほかのやつらにわかるわけがない。きちがい兄貴は、一秒だってゆずってくれないけど……意地になって鳴らすけど……「鳴らすな」と言われたら、きちがい的な意地で鳴らすけど……自分が鳴らしたつもりはというのは、「いつも」ないんだぞ。そういうきちがいが家族にいる状態というのがわからないだろ。そういうきちがい家族が、とりつかれたように、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らすということがどういうことなのかわからないだろ。そういう生活をしてなければ、一日でも、どれだけヘビメタ騒音がこたえるかわからないだろ。千数百日続いて、高校入試をうけるときの気分がわからないだろ。毎日、こっぴどくやられる。けど、きちがい兄貴のなかでは、自分がかかわっているつもりがないんだよ。どれだけ言われたって、自分がかかわっているつもりがない。きちがい兄貴が張本人なのに、張本人のきちがい兄貴がまったくやったつもりがないのだ。頭がおかしいからそういうことが平気でできる。そして、いつも、そういうモードなんだよ。いつも頭がそういうモードなんだよ。反省なんてするわけがないだろ。こんなの、他人にわかるわけがない。
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きちがい兄貴のヘビメタに対する態度は、きちがい親父のいろいろな物事に対する態度おなじなんだよ。こまるんだよ。
みんな、ヘビメタ騒音のしつこさと、きちがい兄貴の頑固さがわかってない。頭がおかしい。ほんとうに、普通なら絶対にわかることが、どれだけ説明してわからないんだよね。自分に都合よく、現実認知を書き換えてしまう。頭がおかしいからそういうことが、できる。頭がおかしくない人だと、自分がわざとやっているということを、どうしても、(現実認知を書き換えていると)認識せざるをえないんだよ。
こういうことに関する、世間の人の「わからなさ」がまた、すごいんだよな。世間の親兄弟は、そういう人間じゃないから、そういう人間のことがわからない。そういう人間といっしょの家にすむということがどういうことなのか、わかってない。これも、こっちがどれだけ説明したって、経験がなければわからないという世界だ。
発狂的な意地でやったことが、全部やってないことになっている。そういう頭をもっている。これが、どれだけ、ほかの人に言いにくいことか、みんな、わかってない。けっきょく、ほかの人は、きちがい兄貴のような家族から、騒音攻撃を受けたことがないからそういう騒音攻撃を受けた一日というのがどれだけつらい一日になるかわらない。次の日も、必然的につらい一日になる。そりゃ、鳴らされていると、眠るべき時間に眠れなくなるから、次の日も影響をうけるのである。それが毎日続いたら、どんなことになるか、ほかの人は、わかってない。自分のからだで経験したことがないから、俺がヘビメタ騒音のことを説明しても、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したり無視したりする。これが、ほんとうに、頭にくる。きちがい的な家族にやられているからこそ、きちがい的な家族にやられたことがない、普通の人たちには、まったく経験がないことになる。どうしてかというと、普通の人たちの場合は、きちがい的な家族と一緒に住んでいるわけではないので、そういう経験がまったくないということになるのである。これ、職場や学校で、きちがい的な人にやられる……というのはとちがうのだ。職場や学校で、きちがい的な他人にやられるというのとは、ちがうのだ。これがまずわかってないんだよな。普通の人は、普通の親に育てられているから、わからない。普通の人は、普通の家族に囲まれて生活しているので、わからない。きちがい的な家族……きちがい的なみうちにやられたことがないんだよね。そうなると、きちがい的な家族というものがどういうものだか、根本的にわかってないということになる。佐藤(仮名)のような障碍児教育にかかわっている人間だって、きちがい的な家族がいない家庭で育った場合は、きちがい的な家族がどういうものかわかってないというところがある。そうすると、きちがい家族がどういう感覚で、どういう認知で、どういう態度で、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らすかということが、「肌感覚で」わからないということになる。だから、自動的に、過小評価する。自分の家……きちがい家族がいない家庭……のなかで起こったことを基準にして、きちがい家族のことについて考えてしまう。きちがい家族がいない家庭のもめごとを基準にして、きちがい家族がいる家庭のもめごとを考えてしまう。自動的にそうなする。それ以外にないということになる。考えられるわけがない。普通の家族に囲まれて育った人は、気普通の家族の基準で、きちがい兄貴による「ヘビメタ騒音」というものを認知・認識してしまう。けど、それは、まちがった、認知・認識なのである。きちがい家族が行為の主だというとが、根本的にわかってない。だから、そういう「自分が経験したことがない」騒音について、過小評価したり、無視したりしてしまうのである。ヘビメタ騒音そのものだけではなくて、ヘビメタ騒音の影響も、過小評価したり、無視したりしてしまうのである。