たとえば、39度のお湯につかっている人にとっては「快適だ快適だと言えば、快適になる(快適な感じがする)」といったことは、「事実」なのである。いっぽう、1度の水に使っている人にとっては、「事実」ではない。
1度の水につかっている人は、39度のお湯につかって「快適だ快適だ」と言えば、快適な感じがするのだろうということを想像しなければならなくなるのである。
水の温度という条件がちがう。
この条件のちがいを無視してしまうのである。
めぐまれた側の人……生まれたときから恵まれた生活をしている人は、39度のお湯につかるのが当たり前なので、1度の水につかっている人のことなんて考えることができないのである。
1度の水につかっている人は……つかるしかない人は、どれだけ「快適だ快適だ」と言っても快適にはならず、つめたい水のなかで、つらい思いをすることになる。
人間のからだというのは、物理的な存在だ。そして、生きていくには、さまざまなしくみがある。体温をだいたい36度あたりで維持しないと生きていけないのである。
それは、言霊の「空想世界」とはちがって、「現実世界」だ。物理的なからだに依存していることは、物理的なからだに依存しているので、「空想世界」でだけ、快適になれば、それでいいということにはならないのだ。
ところが、39度のお湯につかれる人間にとっては、39度のお湯につかっているだけで、物理的な条件が満たされてしまうので、物理的な条件について考える必要がないのである。
所与の条件として、快適に感じられるようになっているのである。
なので、「快適だ快適だ」と言えば「快適に感じることができる」あるいは「快適になる」というのは、その条件において、「真実」なのである。
ようは、条件が成り立っているから、「快適だ快適だと言えば快適になる」ということが真実であるように感じることができるだけなのだ。
ところが、こういう「言霊」的なことを言う人は、そういうことを……つまり、所与の条件を無視してしまう。なので、言霊は絶対法則として成り立つというようなことを言う。条件に関係なく、言霊が成り立つのである。
条件に関しては、都合よく、無視してしまうのである。
しかし、条件はある。そして、言霊なんかよりも、物理的な条件のほうが人間のからだや人間が自然に持つ感じ方に、影響をあたえるのである。
じつは、条件が満たされている人が、条件が満たされてない人の感じ方を無視しているのである。どうして無視することができるかというと、すでに、その条件が満たされているからだ。
これがわかってない人が多すぎる。こういう人たちは、エックスをすればワイになるといった二項文を絶対的な法則だと思っている。
彼らにとっては絶対的な法則なのである。彼らは、条件を考えないので、現実世界において条件を満たしてない人にも、この絶対的な法則が成り立つはずだと考えてしまうのである。
しかし、そういう思い込みや思い込みにもとづく発言が、条件をみたしてない人のこころをゆさぶり、傷つけるのである。