2022年9月24日土曜日

39度のお湯につかっている人間には、1度の水につかっている人間の状態がわからない。

 めぐまれている人とめぐまれていない人とでは、条件がちがうんだよ。だから、条件について、まず最初に考えなければならない。ところが、めぐまれた人が、X(エックス)をすればY(ワイ)になるといったようなことを言う場合は、条件のちがいを考えてない。

たとえば、比喩になってしまうけど、ふかふかな椅子に座っている人と、一〇〇本の毒針がはえている椅子に座っている人とでは、条件がちがう。ふかふかな椅子に座っている人が「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言ったとして、それがふかふかな椅子に座っている人にとっては事実であるとしても、トゲがはえている椅子に座っている人にとっては、事実ではない。トゲがはえている椅子に座っている人は「楽しい楽しいと言っても、楽しくなれない」のである。それは、ふかふかな椅子に座っているか、トゲがはえている椅子に座っているかによってちがうわけ。ようするに、座っている椅子の条件がちがう。ところが、ふかふかな椅子に座っている人は、生まれたときからふかふかな椅子に座っているので、トゲがはえている椅子に座っている人のいたさがわからない。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」などと言うわけだ。本人は、実際に、ふかふかな椅子に座っているとき「楽しい楽しい」と言ったら楽しくなったという経験があるわけだから、「これは真実だ」と思ってしまう。けど、それは、ふかふかな椅子に座っているからこそ成り立つ経験だ。どんな条件でも成り立つ「絶対法則」なんかではない。

もうひとつ、比喩的な話をしておこう。たとえば、摂氏三十九度のおゆにつかっているひと、摂氏一度の水につかっている人では言うことがちがうわけだよ。けど、摂氏三十九度のお湯につかっている人が、摂氏一度の水につかっているひとの『条件』を無視して、好き勝手なことを言う。

横道にそれるけど、ちょっとだけ、水とかお湯という単語について考えてみよう。日本語だと、水とお湯で、使いわけているけど、英語だとwaterであって、水とお湯の使い分けはない。お湯はhot waterであって、なんかそれをあらわす別の単語があるわけではない。温度によって、単語を使いわけているわけではないのだ。けど、じゃあ、氷と水をわけていないかというとそうではない。氷に関してはiceという単語がある。氷と水のちがいもじつは温度のちがいなので、温度のちがいによって、単語を使いわけていないというわけではないのだ。ただ、お湯と水の場合は、両方とも、液体なので、英語だとどっちもおなじ単語であらわすのだろう。こういうのは、じつは、ものの認知と結びついている。これはこれで、人間が世界をどのように見るかという問題にかかわっている。これは、格差の認知よりも、さきにたつ、世界認知の差だ。土台になっている認知の問題だ。

日本語だと、湯船のお湯、湯船の水というような使いわけになるので、「お湯」か「水」かでちがうではないかと思う人がいるかもしれないけど、それは、言葉がちがうだけであって、お湯も水も、温度がちがう水として認識して話をすることにする。

ようするに、摂氏三十九度のお湯につかっている人間には、摂氏一度の水につかっている人間の状態がわからない。摂氏三十九度のお湯と摂氏一度の水では、条件がちがう。にもかかわらず、摂氏三十九度お湯につかっている人間が、条件のちがいを無視して、いろいろなことを言う。たとえば「快適だと快適だ言えば、快適だと感じる」「お風呂に入れることに感謝すればいい」「お風呂は気持ちがいい」というようなことを言う。いっぽう、これは、摂氏一度の水につかって、凍えそうになっている人間にとっては「真実」ではない。「正しいこと」ではない。摂氏一度の水につかって、凍えそうになっていれば、「快適だ、快適だ」と言っても、快適だと感じることができない。つらい状態で「快適だ、快適だ」と言っても、つらい状態のままだということを経験してしまうのである。めぐまれた人の助言というのは、そういう問題を含んでいる。めぐまれた人は、相手の状態を理解せず、条件があることを無視して、ただ単に「言うこと」や「感謝すること」にフォーカスしてしまう。そして、いつもお決まりの「宇宙を貫く絶対法則」だと言う。「だれだって、そうだ」「どんな条件でもそうだ」と言う。条件を無視して、「人間はこうだ」ということを言う。決めつけ。大上段に構えて、決めつけをしてしまう。相手の条件を無視するということが、そもそも、相手を尊重してないということなのである。ところが、言霊っぽいことを言えば、なんか、スピリチュアルだと感じてしまう。宇宙の大法則について語っているような素敵な気分を、味わってしまう。相手のことなんて、お構いなしに、自分だけ、いい気持ちになってしまっているのである。

基本的には、せいぜいのところ、38度と摂氏三十九度のちがいぐらいにしなければならないのである。しかし、摂氏一度と摂氏三十九度ぐらいの差がある。生まれてこのかた摂氏三十九度のお湯にしか、つかったことがない人には、摂氏一度の水につかっているということが、どういうことなのか、根本的に理解できない。そして、温度のちがいを無視してしまう。

たとえば、摂氏一度の水につかっている人が「つめたい。つらい」と言ったとしよう。言霊主義者は「つめたいと言うから、つめたい」「つらいと言うから、つらくなる」と言って、摂氏一度の水につかっている人のことをせめる。そういうことを言う言霊主義者は何度の水(お湯)につかっているかというと摂氏三十九度の水(お湯)につかっているのである。摂氏一度の水につかっている人がどれだけ「あったかいあったかい」と言ってもあったかくならない。摂氏一度の水につかっている人がどれだけ「快適、快適」と言っても、快適にならない。不快な、つらい状態が続く。どうしてかというと、言ったから、そう感じているわけではなくて、摂氏一度の水につかっているという状態がそういう感覚を引き起こしているからだ。

たとえば、摂氏三十九度のお湯につかっている人は、「入浴は気持ちいい」と感じるだろう。あるいは、「風呂は気持ちいい」と感じるだろう。なので、入浴できることに感謝することもできる。風呂をつくってくれた人やガス窯を設置してくれた人に感謝することができるだろう。しかし、摂氏一度の水につかっている人は、「入浴は気持ちいい」とは感じない。「風呂は気持ちいい」と感じない。この人が、入浴できることに感謝すれば、しあわせになれるかというとしあわせになれない。入浴できることに感謝しても、摂氏一度の水につかっていることは、つらい。入浴自体が、つらいことなのだから、風呂をつくってくれた人やガス窯を設置にしてくれた人に対して感謝の気持ちがわくかというと、わかない。摂氏一度の水につかっている状態が、くるしくて、つらい状態だからだ。やせがまんをしてつかっているのである。しかし、感謝をすれば、しあわせになれるということ言う人の意見に従って、摂氏一度の水につかりながら「風呂をつくってくれた人、ありがとう」「ガス窯を設置してくれた、ありがとう」と感謝の言葉を述べても、摂氏一度の水につかっているという、つらい状態が、かわらないので、しあわせにならない。しあわせを感じない。記憶に残るのは、つらい状態で「風呂をつくってくれた人、ありがとう」「ガス窯を設置してくれた、ありがとう」と(自分がほんとうには感じてないことを無理やり言った)という記憶だけだ。その記憶はつらい記憶なのである。



毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。