アドラー主義者やポジティブ思考愛好者は、不幸の量は、だいたい同じだが、ひとによって、不満を言いやすい人と不満を言いにくい人にわかれるという、人格モデルをほぼ無意識的に採用しているのである。なお、この無意識というのは、ただ単に意識してないという意味であってフロイトの「無意識」とはちがう。ようするに、もともとの不幸量のが一定で、ちがうのはその人がどのくらい、自分の不幸について語りやすいかどうかの問題であると思っているのだ。しかし、ふかふかな椅子に座っている人間と、トゲがついた椅子に座っている人間の不幸量がちがうように、現実社会においても、めぐまれたうちに生まれた人間は、不幸の量が少なく、めぐまれないうちに生まれた人間は不幸の量が多いと思う。この場合は、不幸量が一定ではなくて、不幸量には大きな違いあるという理論に立つのである。だから、まずもって、人格と不幸量の関係において、整理しておかなければならない。たとえば、不幸について語りやすい度合を1とする。だれもが1だとする。その場合、不幸量が10の人は10不幸について語り、不幸量が1000の人は1000の不幸について語るということになる。実際には、きちがい的な親にたたられた人間は、不幸量が増す。人格的に成熟した親に育てられた人間よりも、きちがい的な親にたたられた人間は、不幸量が増すのである。それは、きちがい的な親が、つねに、きちがい的な感情をもって、その人間に働きかけるからである。これ、わからないと思うけど、きちがいはきちがいだから、つねにきちがい的な行動をするのである。つねにきちがい的な感情をもっているのである。この場合、時間とともに、攻撃をうける回数が増えていくのである。それは、おぎゃーと生まれたときから決まっている。なにか、きちがい的な親のもとに生まれた人間も、きちがい的な親に生まれたあと、不幸が一定の量だと、勘違いしているような人間が多い。たとえば、アドラー主義者や認知療法家だ。こいつらは、不幸量が一定で、人格の問題があるから、不幸について語りやすいと考えているのだ。こいつらは!! こいつらは!! けど、それは、まちがっている。きちがい的な親が支配するうちに生まれた子供は、実際に不幸なことを経験するのである。それは、親によるいじめ?が、ずっと続くからである。わかりやすいように「いじめ」とか書いたけど、きちがい的な親は、死にものぐるいで、子どもにからんでくるのである。からむ。死にものぐるいで、子どもをいじめる。それは、内側の感情の爆発なのである。子どもは、人間サンドバックだから、どれだけたたいてもかまわないという「内的な」規定がある。思い込みがある。しかし、これまた、この思い込みが、無意識的なもので、本人が自覚できないものなのである。この無意識的なもの、の、無意識は、フロイトの無意識と関係がある無意識だ。ただ単に、自覚してないというレベルのものではない。ともかく、本人は、いじめているつもりはないのだけど、死にものぐるいになって、攻撃をする。その攻撃は、あたりまえの攻撃だから、息を吸って吐くように、攻撃をするのである。それは、生活のあらゆる点において、発揮されるのである。だから、不幸量は、毎日、不可避的に増えていく。一定じゃないのだ。ところが、「不幸な出来事」と「不満」という二項目をぬきだすと、そういう、条件がすべてぬけおちてしまう。そして、「不幸な出来事」の総数がだいたい同じなのだけど、不満を言いやすい人は不満を言うというモデルを採用して、不幸な出来事と不満の関係について語りだしてしまう。まず、条件がぬけているということに注目しなければならないのである。そして、不幸量が、ひとによってちがうということを重視しなければならないのである。それなのに、バカな人は、「不満を言う人は、みんな不幸だ」と言ってしまう。これは、不満を言いやすいという人格そのものに問題があるから不幸なのだと言っているのとおなじだ。こういう、発言は、条件を無視した発言だ。人によってまったく条件がちがうのに、条件のちがいは、無視されているのである。また、こういう発言は、不幸量を無視しているのである。無視しちゃ、いけないんだよね。
ていよく、生まれながらにして不幸量が大きい人(不幸な出来事の数が多い人)のことを、おいこんでいる。こいつらの、無邪気な発言で、不幸な人がより不幸になるのである。