すでに、しあわせな人が、しあわせになるには、○○をすればいいというようなことを言ったとする。けど、そのしあわせな人がしあわせなのは、○○をしたからじゃないんだよ。生まれながらに、しあわせだった。経済的にもめぐまれていて、精神的に成熟した親のもとに生まれたから、しあわせだった。生まれながらに経済的にめぐまれていたので、たいした苦労もなく、経済的にめぐまれた生活を維持できた。経済的にめぐまれた家に生まれたから、成人してからも、経済的に恵まれた生活ができたのだということを言うと、経済的にめぐまれた家に生まれた人は、「俺だって努力した」とか「たいして、めぐまれてない」とか「成人してからの収入は、生まれた家の収入とは関係がない」とかと言いがちだ。そういう傾向がある。これは、基準がちがうから、そういう言葉が出てくる。めぐまれた家に生まれた人は、自分がどれだけめぐまれているか、あるいは、めぐまれていたか、わかってないところがあるんだよ。「普通」と言った場合の「普通」の基準が、ぜんぜんちがう。そして、その、ちがいには、無頓着なのだ。仕事をしはじめるときの条件がまるでちがうということがわかってない。そして、仕事をしはじめるときの条件のちがいは、その人の努力の結果ではなくて、生まれてきた家の格差の結果が反映している。
ともかく、意図的なのか、意図的ではないのか、よくわからないけど、すでにしあわせな人は、かならず、本人がしあわせになった本当の理由はかくして、あるいは、無視して、まったく、意味がない方法を、しあわせになる方法だという「くせ」がある。ほんとうは、○○をしたからしあわせになったのではなくて、条件がいいうちに生まれたから、○○をするまえから、すでにしあわせだった。だから、条件が悪いうちに生まれた人が、○○をしても、しあわせにならない。こういうことがまったくわかってないのだ。生まれの格差「上」の人はこういうことがまったくわかってない。自分がどれだけ恵まれた家に生まれて、さまざまな条件で優位だったのかが、わかってないのだ。問題なのは、生まれの格差「上」の人が○○をすればしあわせになれる、というようなことを、生まれの格差「下」の人に向かって言うことだ。これは、社会のしくみからして、そういう順序と方向性が成り立っている。さらに問題なのは、生まれの格差「下」の人が、その方法を「信じてしまう」ことだ。一時的に信じてしまうことだ。生まれの格差「下」の人が、生まれの格差「上」の人がすすめる○○をしても、絶対に、しあわせになれない。だから、基本的に、だます構造、だまされる構造が成り立っている。
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