ワクチンのなかに、あーーんなものや、こんーーんなものがはいってることは、ぬきにして、もうだめだ。
復活しないな。ほかの人よりも、不幸量が大きいんだよな。きちがい家族と一緒に住んできたので、不幸な出来事の回数が多い。
これ、ちがうんだよ。ぼくはもともと、きちがい兄貴やきちがい親父がかかわってない人づきあいは、好きだったんだよな。友達も多かったし、楽しく遊んでいた。深くつきあった親友もいた。きちがい兄貴やきちがい親父がかかわる部分で、「浸食」がはじまる。「汚染」がはじまる。きちがい兄貴やきちがい親父がかかわる部分が、ほかの人との付き合いを、だめなものにする。破壊する。不可避的なんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は特にひどかった。一日だけでも、どれだけつらいものか、ほかの人にはわからない。たとえば、佐藤にはわからな。わからないやつは、「ヘビメタ騒音でできない」ということを認めない。わからないやつは、「ヘビメタ騒音の影響」を認めない。そうすると、いろいろと、不愉快な気持になる。トラブルが発生する。親友との絶交だって、それが、影響している。一番大きな原因だ。そりゃ、どれだけ、「知っていたって」他人は他人だから、自分のからだをとおして、一日に二十四時間経験したわけじゃな。たとえば、一日に十二時間しかなってなかったとしても、残りの十二時間が影響をうける。鳴っていた十二時間の影響をうけてしまう。鳴ってない時間である十二時間が、鳴っていた十二時間の影響をうけてしまう。そして、それは、どれだけ努力しても、無効化できない。鳴らされていれば、どれだけ「気にしないようにしていても」影響をうけてしまう。からだが影響をうけてしまう。そういう一日を、経験したことがない人が、ヘビメタ騒音の影響を軽く無視して、あと倍するのだから、こっちとしては、たまったものではない。「それちがうよ」と言いたくなる。だれだって、あの騒音生活を経験すれば、俺とおなじ状態になる。騒音というのは、その人にとって、一番苦手な音だ。別にヘビメタじゃなくてもいい。いや、ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタじゃだめだ。その人が一番苦手な音が、ああいう音のでかさで鳴っていたら、どれだけ影響をうけないように努力しても、どうしても、影響をうけて、いろいろなところがダメになっていく。どうしても、からだが影響をけて、ほかの時間も、いろいろなトラブルに巻き込まれることになる。だいたい、鳴っているので勉強ができない」というのは、本人とって一番苦手な音を、きちがい家族が、きちがい家族の好きな音量で、好きな時間ずっと鳴らしている生活をしているのであれば、わかることなんだよ。けど、そんな、きちがい家族はほかの人にはいない。ほかの人の家族は、どれだけヘビメタを思いっきり鳴らしたいと思っても、ちゃんと遠慮をして鳴らす。遠慮をせずに鳴らしているときは、遠慮をせずに、でかい音で鳴らしているということを、知っている。きちがい兄貴は、つねにそうしているのだけど、つねに、知らない状態なのである。これがまた、わからないのだろうと思う。ほかの人にはわからない。こんな家族がいる人がいない。そういう人は、ヘビメタ騒音についても「常識的に」考えてしまう。鳴らしていれば、鳴らしているということを、鳴らしている本人は知っているはずだと思ってしまう。そう前提してしまう。けど、それがそうじゃないんだよ。ちなみに、きちがい親父もおなじなんだよ。自分にとって不都合なことは、どれだけやったってやってないことになっている。だから、認知自体がちがう。認識自体がちがう。普通ならそういう音で鳴らされたらこまるというとが、わかる。本人が、意識的にどれだけ否定しても、自分が騒音を鳴らされて不愉快な思いをしたという経験があれば、その経験から、相手が言っていることを推量してしまう。けど、きちがい兄貴の場合、「やりたければ」どれだけ明確に言われたって、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないということになる。これは、ハンダゴテ事件で、親父が、「このはんだごては使えない」ということを認めなかったのとおなじだ。しかも、本人は発狂して、そういうことを、主張するのに、発狂して、相手が言っていることを絶対に認めないで、否定したということも、やっぱり認めないのだ。だから、行動だけが、アクティングアウトしている状態になってしまっている。このアクティングアウトは、無意識に対応したアクティングアウトなのである。やっていることも認めないし、相手がこれこれこういう理由でこまるということを認めないし、それを自分が怒り狂って否定して、自分の意地をとおして、それ以降もおなじ行為をしたということを認めないのである。認めないということも認めない状態で認めない。どれだけ言われても、自分が関係していることとして認知できないのである。主語? 主体なら、きちがい親父ときちがい兄貴だよ。両方。両方とも同じなんだよ。おなじなんだよ。
おなじ家で生活している人の影響はうける。これも、アドラーみたいに頑固な人は、影響をうけるということを認めない。やぱっり、アドラーの態度は、きちがい親父やきちがい兄貴と似ているところがある。アドラーの家族がまともだったから、共同幻想からはずれたことをしないので、問題にならないという部分と、アドラーの場合、無意識のほうにスイッチが入っていて、自分が意地になってやっていることを認めないということがないのである。だから、そういう点でちがっているけど、頑固なところは似ているんだよ。アドラーの場合、きちがい家族にやられなかったから『影響をうけないことが可能だ』と考えるわけ。こいつも、ほんとうに、やかっいだな。こいつの信者の、レベルが低すぎる。こいつらは、みんな、個別の条件というものを無視しやがるのである。アドラー信者はまともな家に生まれてきた人で、まともじゃない家に生まれてきた人のことを、バカにする。勘違いして、バカにする。おまえらが理解できないだけのことなんだよ。これ、理解できてないだけなのである。不幸な人の条件というのを、無視するのである。特に、生まれの家族に関係する条件を無視する。条件はたばになって、環境。環境を無視して、そいつ個人の「人格」の問題にするのである。こいつらは、ほんとうに失礼な人間だよ。