人生の時期を、ヘビメタ騒音以前、ヘビメタ騒音中、ヘビメタ騒音以後の三つにわけるとする。その場合、ほかの人は、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、ヘビメタ騒音以前のからだに復帰するはずだと考えてしまうのである。ところが、これがまったくちがう。まったくちがうのだけど、ほかの人には、「ヘビメタ騒音中」の経験がないから、自分のからだの経験として、わからないのである。ヘビメタ騒音相当の騒音にやられた人は、ごく少数だろう。どれだけ多く見積っても、〇・一%ぐらいだと思う。その場合、九九・九%の人は、自分のからだの経験として、わからない人たちだということになる。つまり、九九・九%の人が、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音以前のからだに復帰するはずだとナチュラルに、考えてしまうわけだ。つまり、ぼくが社会に出ていけば、一〇〇〇人中九九九人が、そういう解釈をするということだ。そうなると、佐藤のように、そういう前提に立って、ものごとを言ってくるということになる。そうなると、佐藤のように、そういう前提に立って、俺のすべての行動に関して、解釈をするということになる。まあ、すべての行動というのは一度、そういう認知的誤謬が成り立つと、その線にあわせて、エイリさんの行動を解釈するようになるということだ。彼らにとっては、たとえば、ぼくが、(その時)無職であるということや、職歴がないということがものすごく重要なことに思えるのである。そして、「人間は働くべきだ」という考え方は、「ヘビメタ騒音は過去のことだから影響がない(はずだ)」と考えて、「人間は働くべきだ」と言ってくるわけだ。そして、この「人間は働くべきだ」というのは、「人間はポジティブに生きるべきだ」とか「人間は効率的に生きるべきだ」とか「人間は、過去のことにこだわって生きるべきではない」とかという考え方と親和性がある。そういうふうな一般的な考え方をもっている人たちは、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったなら、たとえ、一五年間にわたって鳴っていたとしても、過去のことは過去のことだから、いまのエイリさんには関係がないことだ」と考えてしまうのである。エイリさんが、過去にこだわっているから、過去のことが問題になる」と考えてしまうのである。けど、このふたつの考え方は、間違いだ。あきらかにまちがっている。けど、あきらかにまちがっていると俺が言ったとしても、自分のこととして、ヘビメタ騒音の経験がない人は、それがわからない。ヘビメタ騒音以降のからだは、ヘビメタ騒音以前のからだとおなじではないのである。それが、根本的に!!決定的に!!わからない。わからない以上は、わからない。そいつにとっては、それが真実だ。だから、こういう決定的にばかな人、考え違いをしている人を、相手にすることになる。それは、ぼくにとって、苦痛なことだ。そりゃ、ばかを相手にするのはいやだからな。これが、どれだけ言ってもわからないんだよ。どれだけ言ってもわからない理由は、書いておいた。そういう理由で、そいつらは、わからない。