まじ、しんどいわぁーー。まじ、つまんないわぁーー。
これ、よくやってきたよな。あーーんな状態で、よくやってきたなぁ。生きているだけですごいなぁ。普通だったら、死んでいる。
しかし、もう、つかれた。
ダニとの戦いもつかれた。一番いやなのは、顔をさされることだ。特に、鼻ふきん。鼻の頭をやられてるんだよね。これは、ニキビなのか、ダニなのか、まったくわからない。どっちでもありえる。感じとしては、ニキビなのではないかと思う。あとは、「うつのたいせき」がある。堆積ね。つもりにつもった「うつ」がある。もう、つかれたよ。どの場面を思い返しても、くるしい場面なんだよね。くるしい。くるしいんだよ。ほかのやつらにはわからないよ。だって、ほかのやつらには「きちがいあにき」がいないもん。そして、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でヘビメタを、一日中鳴らしたという現実がない。それなら、話がちがってくる。ぜんぜんちがってくる。
ほかのやつらの、のんきな設定。俺だって、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らさなかったら、言っていることがちがう。全人生がちがう。全人生。全部ちがう。これ実際に、やられた人じゃないわからないんだよな。一日だけでも、ものすごくくるしい。はりつめた状態になる。怒っているのをがまんして、何時間も何時間もたえているのだから、精神がぐちゃぐちゃになる。はらだたしいものになる。これは、鳴っているときだけではなくて、何日も続くと、鳴ってないときも、ぐちゃぐちゃになっているのである。けど、ほかの人には関係がないから、ほかの人には、ぐちゃぐちゃな部分を見せないようにして、対応する。そうすると、こころがはりつめる。寝不足がたたって、意識がとんでしまいそうな状態なのに、こころがぐちゃぐちゃぐちゃで、さらに、それを隠そうとして、こころがはりつめた状態になる。きちがいヘビメタはそういう効果がある。きちがい兄貴は、そういう効果を狙ってやったわけじゃない。きちがい親父とおなじで、自分がやりたいだけなのである。自分がやりたかったら、感覚器を書き換えて、やってしまうのである。どれだけでかい音で鳴らしても、こんなのは、しずかな音だと感覚してしまう。でかい音だと認めたら、音をさげなければならなくなる。それが絶対にいやなのである。けど、それが……そういう思考のプロセス全体が、意識によって認識されているわけではないのである。全部、無意識的なプロセスでおこなわれるのである。だから、本人としては「つもりがない」ままなのである。こういう場合「つもりがない」といことは、全部ふくめてやってないということにひとしいのである。等価なのである。けど、これが、ほかの人には、まったくわからない。そして、さらに、きちがい兄貴にはまったくわからない……ほかの人以上にわからないという性質がある。これだって、もし、「つもりがないけど、意地になってやった」ということを認めてしまったら、芋づる式に、最初の部分……でかい音で鳴らしているのに、しずかな音だと思っているという部分まで、浸食してしまうので、絶対に避けなければならないことなのである。これも、意識的に避けようとしているわけではないのである。なので、連鎖的に、重複した現実認知の錯誤がしょうじるのである。これは、悪意がない認知症の現実認知の錯誤ではない。ちゃんと、悪意がある。ごまかしの部分がある。まず、完ぺきに自分をごまかしてしまうのである。それは、どうしてかというと、どでかい音で鳴らしたいからだ。「よそじゃ、絶対に鳴らせないような大きな音」で鳴らしたいからだ。自分が満足できる大きな音で、ずっと鳴らしたいからだ。自分が鳴らすとなったら、その音で鳴らさなければならないのである。で、意地になっているということは、絶対に認めないのだけど、たとえば、一分でも、こっちの要求にあわせて、フォークギターぐらいの音にしたら、一分間のあいだ、ずっと、はらわたが煮えくり返っているような状態になってしまうのである。我慢してないから、まったくかんけいがないつもりでいられる。一秒でもがまんしたら、真っ赤な顔をして、発狂してしまうのである。「そんなのできるか!!」と絶叫して、がまんしないで鳴らす。そのとき、こっちが意地をとおそうとすると、殺さなければならないのである。きちがい兄貴の踏ん張りはそういう踏ん張りだ。きちがい兄貴の意地はそういう意地なのである。一日のうち、一時間はそういう態度で暮らしているというわけではなくて、一日のうち、二四時間そういう態度で暮らしているのである。だから、全部の時間、しずかにしない。全部の使える時間……つまり、鳴らせる時間……ずっと最大限の音で鳴らすということになってしまう。さらに、普通の家であれば長男がそういう状態であっても、親は普通の状態なのだから、抑制が効くんだよね。どっちが、正しいのか、どっちが無茶なことをしているのか……公平に判断してくれる。ところが、うちの場合は、きちがい親父がきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっているので、抑制がきかないのである。もちろん、おやじは、こっちが赤ん坊のころからそういう頭の構造をもっている。きちがい親父も、きちがい的なことで、意地をはって、意地をはって、きちがい行為をしてきたのである。「やめさせられそうになったら」怒りくるという反応をしてきたのである。おかあさんの言うことは、きちがい兄貴もきちがい親父も聞かない。そりゃ、聞くわけがない。きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地でやってないという認知をつくりだしてしまうのだから、ひとから言われて、聞くわけがない。最初から、言ってわかるようだったら、苦労してない。こんなこと」になっていないのだ。頭がおかしくて、認知構造がおかしいから、そういう反応をするのである。全体的には、顔を真っ赤にして、怒り狂って聞かないということをする。けど、本人は、これまた、そういうことをしたというつもりがないのだ。こういうふうに重複しているので、どの時点で指摘しても、どの時点でたのんでも、きちがい親父ときちがい兄貴は、言うことを聞いてくれない。なおかつ、相手が必死になっていってきたけど「言うことを聞いてやらなかった」というつもりがないのである。けど、実際のアクティングアウトされている行動は、まさに、聞かないで、自分の意地をとおして、頑固に、やりたいことをやりたいようにやったということになる。これが、毎日、毎時間、毎分、毎秒、続くのである。どうしてかというと、頭の構造がそういう構造だからだ。