全財産を寄付するとしあわせになれると言っていた医者は、全財産を寄付したの?
どこに寄付するかというと、宗教団体なわけで、悪質な洗脳とかわりがないんだよな。そういうのを、感動のストーリーだと紹介してしまう。これ、壺でしあわせになった人の感動のストーリーと、どうちがうの?
全財産、はたいて、幸福のツボを買ったという話と、どうちがうんだよ?
寄付することでしあわせになるなら、カルト教団の教徒はみんなしあわせになっている。
全財産を寄付することで、しあわせになるなら、カルト教団の教徒はみんなしあわせになっている。
ぼくにはしあわせになっているように見えない。けど、「そんなのは、個人の感じ方次第だと」という言い方がある。ようするに、「全財産をはたいて、幸福の壺を買った人が、しあわせを感じているのであれば、それは、幸福の壺を買うことによって、しあわせになったということだ」という言い方だ。本人が、しあわせを感じているならそれでいいじゃないかという言い方だ。けど、法則性があるようなものとして、説明したほうの、責任はどうなる?
全財産をはたいて、高価な壺を買って、一時的に幸福感をえたとしても、そのあと、やっぱり、全財産を使ってしまったのは、失敗だったと思って不幸な感じがするなら、けっきょくは、不幸になったといこうとじゃないか。なんであたかも、幸福感がそのあとも持続するような前提でものを言っているのか?
+++++++++++
たとえばの話だけど、きちがい的に頑固な兄が、でかい音でヘビメタを鳴らすことにこだわって、でかい音でヘビメタを鳴らしているから、しあわせではないという場合は、壺を買っても、しあわせにならない。全財産をどこかの宗教団体に寄付しても、しあわせにならない。しあわせになるには、きちがい的な兄が、きちがい的な兄ではなくなり、ヘビメタを鳴らすときは、ヘッドホンをするようになることが必要なのだ。こういう『条件』がある。しかし、たとえば、壺を買えばしあわせになる」というような法則性のある話をする場合は、そのひとの『条件』を無視してしまうのである。しあわせではない状態が続いているのには、「理由がある」のである。なになにをすれば、しあわせになると言う場合、なになにをすることで、その理由がなくならなければならないのである。実際に、その理由がなくなるような強制力が発動するようなものでなければならないのである。実際には、壺を買うことではなくて、きちがい兄がきちがい兄ではなくなり、しずかにするということが必要なのである。ほかにも、方法はある。たとえば、弟だけ、宿を借りて、きちがい兄が鳴らしている時間は、その宿にいるという方法がある。しかし、これをやるとすると、弟が未成年の学生である場合は、親が協力しなければならないのである。しかし、親が兄とおなじように気ちがいであった場合は、そういうことにはならない。これもまた、「不幸になる条件」なのだ。なんらかの、これこれをすれば、しあわせになる」という言い方のなかには、個々人がかかえる『条件』がまったくはいっていない。考慮のそとなのだ。まったく問題になっていないのである。しかし、法則性があるように言うので、あたかも、その行為によって問題が取り除かれしあわせになるような「感じがする」のである。しかし、それは、「感じがするだけ」なのである。これは、「別に壺を買う」ということだけではなくて、「他人に親切にする」というよう場合でも成り立つ。人に親切にすればしあわせになるという言い方には、壺を買えばしあわせになるという言い方とまったく同じ問題が横たわっている。エックス(X)になにを代入するかのちがいでしかない。エックス(X)をすれば、しあわせになるというのは、基本的に『条件』を無視するものだから、そういう効力がなく、意味がない。
二項目を取り上げて、まるまるになるというのは、実はよくないやり方だ。どうしてかと言うと、そうならない場合のほうが多いからだ。しかし、二項目を取り上げることによって、あたかも、二項目の関係があるような錯覚?をもたらすのである。二項目を取り上げた場合、二項目にはものすごくタイトな関係があり、一方を達成すれば、自然にもう一方も達成されるというような言い方をされると、そういうことが、「どんな場合でも成り立つ」ような感じがしてしまう。そして、そういう考えにとりつかれてしまう人が出てくる。これこそが、不幸のもとだ。
「壺を買うとしあわせになる」よりも「他人に親切にするとしあわせになる」のほうが受けがいいのは、ある人が壺を買うと、たいていの場合、まわりの人が不幸になる感じがするけど、ある人が他人に親切にした場合は、たいていの場合、まわりの人が不幸になる感じがしないからだ。けど、これはこれで、問題がある。ある人が思う「他人に親切にする」の内容が、かならずしも、他人にとって、親切ではない場合があるからだ。
もうひとつ、現にしあわせではない人は、人に親切にしないひとだということを、理論的に暗示しているのである。実際には、不幸になる理由はたくさんある。しあわせになる理由もたくさんある。しかし、二項目だけをとりあげて、二項目の関係背について述べると、あたかも、二項目以外は関係がないような印象を与えてしまうのである。これは、印象操作だ。じつは、アドラーもこういう印象操作をおこなっている。この印象操作は、壺購入のように悪いイメージがないけど、ほんとうは、注意しなければならないことだ。不幸な人をより不幸にしているのである。