ヘビメタ騒音の破壊度が、いっしょにいた人間にもわからないんだよな。どれだけ言っても、あまくみつもる。俺が「できない」といったら「できない」のに、俺ができるのに「できない」と言っていると思って、働くことをすすめてくる。俺ができないと言ったら、できないんだよ。これ、俺がどういう気持で言っていると思っているんだ? これ、俺がどういう経験をもとに言っていると思っているんだ。そりゃ、「ずっとヘビメタが鳴っていた」と言うしかないけど、毎日のしんどさは、それじゃあ、つたわらない。他人だと、どうしても、俺の24時間がわからない。一日、24時間の、24時間がわからない。俺のからだがわからない。俺のからだがどれだけ傷んでいるかわらない。他人は、ずっと一緒にいた人もふくめて、「軽いと」だと思っている。俺がちょっと考えをかえれば、どうにでもなることだと思っている。けど、実際に、365日中、365日、ずっとずっとずっと、ずっとずっとずっと、たえきれない騒音を、あびせられて……。たえきれないのに、何年間もたえてきた。これで、精一杯なのに、まだ、余力が残っていると思っている。まだ、「その気になれば」働けると思っている。通学できると思っている。そういうものじゃないのに、そういうものじゃないと言っても、ヘビメタ騒音生活の経験がない人にはわからない。だから、そこにいつも齟齬がしょうじる。認知がちがいすぎる。認知のズレが、うまらない。ほんとうに毎日やられた人じゃないと、毎日のことはわからない。時間……たとえば、一日に7時間あびせられたとして、その生活が10年続いた場合の状態がわからない。実際に、午後4時には、やめてほしいのに、午後11時10分まで鳴っている状態が、どういう状態なのかわからない。きりきりまい。きりきりまいと言っても、経験がないのだからわからない。わからないところで「できる」と思って「やってくれよ」と言う。「むりだ」と言っても、聞かない。そういう人……頑固な人と、いっしょにいられると思うか? 会えば必ず、それを言われる。そういう人と会いたいと思うか? 「どうにかなってくれ」と言われて、「どうすることもできない」「働けない」と言うときの気持ちがわかるか? 「そこをなんとか」と食い下がられて、どういう気持になるかわかるか? 「ほうっておいてくれ」という気持になる。何十回もそういう気持になっていいわけがないだろ。会いたくないと、心底思うようになるだろ。どうして、わからないのか? そりゃ、「ほうっておけない」ということになれば、えん、を、きる、しかないだろ。友だちの記憶が続くわけがないだろ。いっしょにいたいと思わないくなるだろ。会いたくないと思うようになるだろ。どうして、これがわからないのか? ほうっておけよ。ほうっておけばいいんだよ。そこには触れずに、いままで通りにつきあってくれればいいんだよ。それを、こわしたの、きみだ!!
まあ、そっちからすれば、「そんなことで、いままでのことがなしなのか?」「いままでのことは、いったいなんだったんだ」と思うだろう。そういうことなのであれば、そこには触れずに黙っておけばいいだろ。できない」と何回言ったと思っているんだ。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴のしらないところで、俺と友達の縁(えん)を、切ってしまうのである。きちがい的な意地でやりやがって……。ほかの人が、わからないことをしやがって。きちがい兄貴の性格があまりにおかしいからほかの人のまわりにはきちがい兄貴みたいな人がいないんだよ。だから、きちがい兄貴みたいな人がやる、騒音を経験してない。これがどういうことだかわかるか? 俺は、自動的に友達をなくして、通学通勤ができる体力をなくして、生きていかなければならなくなるんだぞ。