いやー、ほんとうにつまらない。俺、よく、生きているなぁ。
あーー。お楽しみ回路を破壊されたのが、一番、こたえたのかな?
あの感情の繰り返しじゃ、こわれるよ。
どんだけ、つらかったか。
どんだけ、ながい時間持続したか?
どんだけ、ながい期間、持続したか?
まったく経験がないやつにわかるわけがない。おなじ経験がないやつにわかるわけがない。けど、その「わからないやつら」が、「楽しもうと思えば楽しめる」「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言っているやつだ」 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と、こっちからすれば、まったく根拠のないあほな意見を言ってくる。彼らは、きちがい兄貴にやられてないからそういうことが言える。「きちがい兄貴騒音相当」の騒音がないから、言える。きちがい親父と同じ家に住んでなかったから言える。どんだけの、経験がつみかさなる? まったくわかってない人たちは、生まれの格差について考え違いをしている。生まれの格差は、時間とともに広がっていくのである。生まれたときの「格差」がその格差の方向で、ひろがっていく。だめなところ、ひどいところに生まれた人間は、どれだけあがなっても、だめな経験、ひどい経験がつみかさなっていく。経験……。ところが、いいところに生まれた人間が、「格差なんて関係がない」「過去なんて関係がない」と言う。こういう、トリック。それからもうちょっと言っておくと、根拠というのがあるのである。感じ方の根拠がある。不適切な感じ方だから、そういうふうに感じないようにしようとしてもむだなのである。感じ方の根拠があるから。たとえば、ひどい家族のもとにうまれたら、ひどい家族との経験がつみかさなる。その場合、「家族と言うのはいやだな」と思うようになる。そこのそこで思うようになる。かりに、テレビドラマで、「理想の家族」みたいなものが放送されていたとする。その、理想の家族のほうが、ほんとうの家族だと思ったとする。けど、自分の経験に根差さない、「理想の家族」は「空想の家族像」でしかないのだ。なので、そういう「あるべき理想の家族」をもとにして、経験を積み上げることができない。それは、自分にとって「よそよそしいもの」なのである。たとえばの話だけど、「理想の家族」に近い家族のものに生まれて「家族とはこういうものだ」と言うイメージをつくりあげたボンボンがいたとする。そのボンボンにとっては、根拠があるイメージなのである。このボンボンが、不幸な人を見て、不幸な人は、家族に対して不幸な考え方をもっていると言ったとしよう。不幸なの人は、みんな自分の家族がきらいだと言ったとしよう。で、対策として、「不幸な考え方をもたなければいい」「自分の家族を好きになればいい」と言ったとしよう。……言ったとしよう。言ったとしよう……。それがなんだというのだ? もともと、めぐまれた家族のもとに生まれた人間。もともと、まともで人格的にすぐれている家族のあいだで育った人間。そういう人にとっては、たとえば、家族に対していいイメージをもつことが可能だ。普通に家族のことが好きになって当然だ。家族というもの、あるいは、家族の構成員に対していいイメージをもつことができる。これを、いいイメージを持てる能力の差のようにとらえがちなのだけど、根拠のないイメージは持てないものなのである。持ったとしても、実際に感じたことのほうが、実際の感情に影響をあたえるのである。実際の行動に影響をあたえるのである。実際の判断に影響をあたえるのである。たまたま、いい家族にめぐまれた人間が、またまた、悪い家族のもとにうまれた人間をさげすみ、能力の差のように考えるのである。
ちょっとだけ、脱線して説明しておくと、「さげずむ」も「さげすむ」も言い方としてある。けど、「見下す」という意味では、「さげすむ」と書くことになっている。まあ、見下すと書いておけばよかったか。
で、話をもどそう。たとえば、めぐまれた家族のもとで育った、ボンボン心理学者が、「不幸な人は、家族のイメージがゆがんでいる」と言ったらどうだろうか? ボンボン心理学者は、自分が、めぐまれた家族のもとに生まれて、自分がめぐまれた家族のもとで生活してきたので、きちがい家族がどういうものであるのか、ほんとうには知らない。経験をとおして知らない。なので、自分の家族(良心的な家族)をもとにして、家族のイメージをつくりあげる。その場合は、経験と家族のイメージが合致しているのである。けど、ボンボン心理学者が提示した「家族のイメージ」は、きちがい家族のもとで育った人にとってみれば、「空想の家族」「自分の経験に根拠がない人間的な交流をしている家族」なのである。なので、経験と言うことを考えれば、たとえば、不幸な家族のもとで生まれ育った人が、不幸な家族のイメージをもつのは、当然なのである。これは、そのことについて、認知がゆがんでないということを意味している。しかし、ボンボン心理学者のほうが、幸福な家族のもとに生まれ育って、幸福な家族のイメージが「認知的に正しいのだ」と思ったらどうだろう。不幸な家族のもとに生まれ育った人間の「家族のイメージ」がゆがんでいると判断してしまう。そして、それは、まちがっている。不幸な家族のもとに生まれたものがもっている「家族のイメージ」に対する認知は、ゆがんでないのである。 どっちの側にいるか? あるいは、どっちの側に含まれるか? ということを考えないで、「(認知が)ゆがんでいる」と言うべきではない。