「悪」ということについて考えてみよう。ヘビメタをあの音のでかさで、鳴らすのは悪だ。なおさら、兄弟が「うるさいからやめてくれ」と一日に何十回も言っているのに、ずっと鳴らし続けるのは、悪だ。
いっぽう、騒音生活の結果、働けなくなった人が働かないのは、悪ではない。ところが、佐藤(仮名)のような常識的な人は、働けなくなった人間が働かないのは、悪だと考えてしまうのである。
ほんとうのことを言えば、佐藤は、エイリさんが働けると思っている。だから、佐藤のなかでは「働けないから働いてない」というのではなくて「働けるのに働かない」ということになっている。エイリさんは「働けるのに働かない人だ」ということに、常識的な佐藤(仮名)は認識しているのだ。これ自体が間違いだ。
きちがいヘビメタ騒音一分間の迷惑度を一兆だとすると、ぼくが働かないことの迷惑度は、ゼロだ。まあ、話がすすまないので、一兆歩ゆずって、ぼくが働かないことの迷惑度を一(いち)だとする。一兆倍悪いことを、問題とするのはなぜか? 頭がおかしいからだ。悪の度合いがわかってない。ほんとうに失礼なやつらだな。しかし、失礼なことをしているのは、佐藤たちなのに、佐藤たちは、自分がエイリさんに対して、失礼なことをしてないと思っているのだ。一兆歩ゆずって、話をすすめてしまったけど、ぼくは、悪いことをしてない。しかし、佐藤たちの考え方ついて考えると次のようなことが言える。「働かないエイリのほうが、ヘビメタを鳴らしたエイリの兄よりも悪いことをしている」と常識的な佐藤たちは判断しているのだ。この、混乱。この、迷惑な考え方。おまえらのそういう、見なし方のほうが、迷惑だよ。しかし、ぼくがそのことについて、不満を述べた場合どういうことになるかと言うと、佐藤たちは、ぼくが不満を感じたということについて、不満を感じるのである。こんなのは、ない。きちがい兄貴が、ほかの人にはまったくわからないきちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らさなければ、ぼくは、外部の人たちと、こういう関係になることはなかった。言霊についてだって、きちがいヘビメタ騒音のなかで「元気だ元気だ」と言って元気にならなかったという経験がなければ……そういう経験がある日が、何千日も続かなければ、言霊を普通に肯定できたのである。けど、ぼくは、きちがいヘビメタ騒音の経験から言って、言霊を普通に肯定するわけにはいかない。そうすると、言霊信者からは、軽く恨まれ、きらわれるのである。話をもどして、佐藤たちの反応のについて考えることにする。言霊の人が反感をもつように、常識的な人たちは、自分たちが言った「あたりまえのこと」をぼくが受け入れないということになると、ぼくに対して、反感をもつようになるのである。「働くのが当たり前のなに、働かないのはけしからん」「働かないのはけしからんと言ったことについて、反対意見を述べたのも、けしからん」ということになってしまうのである。きちがいじゃなかった、常識人、佐藤の頭のなかではそういう考えが浮かぶ。けど、これは、佐藤がヘビメタ騒音の影響を無視しているから起こることだ。佐藤が、ヘビメタ騒音の影響を十分に認めて、ヘビメタ騒音がそれだけなっていたのであれば、働くのはむりだと判断すれば、そういう考えが、佐藤の頭に浮かぶことはなかったのである。ぼくが、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、経験がない人にはわからないのだ。「うち」の状況というものを考えると、普通の人が生まれ育ってきた状況とは、まるでちがうのである。常識人佐藤が育ってきた「うち」の状況と、エイリの「うち」の状況がちがいすぎる。きちがい秋にというカード。きちがい親父というカードが、どれだけの影響をあたえるか、まったくわかってないやつらばかりなのだ。そりゃ、きちがい兄貴というカードときちがい親父というカードを両方、もっている人間でなければ、ぼくが言っていることがわからない。きちがい兄貴ときちがい親父の影響がどれだけ、でかいものか、まったくわかってないのだ。経験をとおしてわかってないから、まったくわかってない状態で、そいつらは生きているのだ。そいつらにできることは、「自分」の家族のカードから、「エイリ」の家族のカードを類推するということだ。けど、この類推は、はっきり言ってしまえば、かならず、誤解をうみだすものなのだ。
いずれにせよ、佐藤は、ぼくがなにもわるいことをしてないのに、悪いことをしていると誤解して、悪いことをしないようにすることを求めるのである。そして、働かないという悪いことをしているのだから、せめられて当然だという考え方もある。なので、自分がエイリを道徳的にせめることは、なんの問題もないことなのである。そしてさらに、自分がエイリを道徳的に攻めたとき、その道徳観についてエイリが文句を言ってきたとなると、不愉快になるのである。そして、エイリが文句を言ってきたのは、エイリが未熟だからそういう文句を言ってきたと考えるのである。自分が言っていることの意味がわからないから、そういう文句を言ってきたと考えるのである。説明するために「文句」ということばを使ったけど、実際には、文句ではない。文句と言うのは、佐藤から見た場合、エイリが佐藤の言葉を批判することが文句を言うことに見えるということだ。エイリの批判は、あたっているのである。なので、佐藤がまちがっているのだから、佐藤は、ぼくの批判を、文句ではなくて、正当な批判だと受け取らなければならないのである。しかし、佐藤はそういうことにも失敗してしまう。常識的な思考しかできないからそういう失敗をすることになる。この失敗は、佐藤側の失敗なのだけど、佐藤は、失敗をしたとは思わないだろう。そういうところに、ズレがあるのである。
さて、こういうずれは、ヘビメタ騒音のことを常識的な人に説明すると、普通に発生してしまうずれなのである。きちがい兄貴が、常識的な考え方らは、想像ができないきちがい兄貴なので、ぼくが、常識的な人から、批判されてしまうのである。文句を言われてしまうのである。未熟だと思われてしまうのである。あの、ヘビメタ騒音を経験したことがない人が、えらそうなことを言う。きちがいヘビメタ騒音をぼくとおなじように経験すれば、その常識的な人だって働けなくなるのに、それがわかってない。想像力がない。とくに、自分と相手の立場をいれかえて考えるということができないのである。不得意なのである。「自分だってそんなにでかい音でずっと、一一歳からヘビメタ騒音を鳴らされ続けたら、働ないからだになるかもしれないな」というような想像がまったく働かないのである。これは、想像力の欠如だ。