まるで受けないけど、書いておく。アドラー主義者は「気にしない人間」を量産しようとするな。「どれだけがみがみ言われても、まったく気にしない人間」を増産しようとするな。
まるで気にしないことが善であるような言い分だ。まるで、気にしないことが正義であるような言い方だ。しかし、「気にしない」ということが善であったり、正義であったりするわけじゃない。「善悪の基準」というのは、人間のなかにほかの基準として成り立っている。
まるで、気にしないことが善であるような言い方自体が悪だ。それだとこまる人が出てくるのである。「迷惑だからやめてくれ」とどれだけ言っても、やめない人がいたとする。その人のなかでは、「相手を無視して、相手の言っていることを気にしないこと」が善になってしまう。
相手が言っていることをまるで気にしない人間がいたとする。その人、個人の「善悪の基準」がほかの人とずれていたとしても、相手が言っていることを無視して、自分がやりたいことをやることが善だということになってしまうのである。
そうなると、その特別な人間が、特別な価値観をもっていた場合、まわりの人が、迷惑をするのである。家族なら、当然、ひどくこまるということになる。まるで、わかってないんだよな。
「相手の言い分を聞いて、たしかに迷惑行為であると思ったらやめればいい」などということをアドラー主義者は言う。きちがい的な意地で迷惑行為をしているやつが、どういう基準で、あるいは、どういう考えで自分の行為が迷惑行為であると認めるのだ?
そういう相対性について、アドラー主義者はまったく考えてないのである。現実は、アドラー主義者が考えているほど単純じゃない。おおきく、基準がずれているやつがいる。そいつが、アドラー主義者の言うことを信じて、「どれだけ、がみがみ言われても、一切合切気にしない」で、やり続けたらどうなるか? そいつの行為でこまっているほうは、もっとこまるということになる。いいかげん、単純な考えで、自分勝手な行為を助長するようなことを言うのはやめろ!! 迷惑なんだよ!!
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「気にしないのが正義である。気にするのは悪である。だから、気にしないようにすればいい。相手がどれだけ、がみがみ言ってたって、それは相手の問題なのだから、気にする必要がない」……こういうふうに思っている人の善悪の基準が、きちがい的な基準だったら、どうなる?
まわりの人間が、こまるんだよ。たとえば、本人の耳が悪くなるようなでかい音で音楽を鳴らしている人間がいるとする。この人をAだとする。そういうことをしているということは、Aは、このくらいの音で鳴らしていいいと思っているということを意味している。
同じ家に住んでいる家族Bが、「うるさいから静かにしてくれ」とがみがみ言ったとする。けど、アドラー主義者に感化されたAは「相手がどれだけがみがみ言ってきたとしても、気にする必要はない」と思って、でかい音で鳴らし続けるのである。
当然、そういう場合だってある。「気にしないこと」が正義か? 「どれだけ相手がどれだけ、がみがみ言ってきても、それは相手の問題だと思って、気にしないでやり続けること」が正義か?
気にするのが悪である。気にしないのが正義であるという価値観とは、別に、善悪の価値観があるのである。そして、善悪の価値観は、ひとによって「だいぶちがう」のである。そういう相対性がまるでわかってないなぁ。
ともかく、「気にしないようにする」のがあたかも正義であるようなことを言って、ひとをそっちの方向に導くのをやめろ。誘導するな。「気にしない人」を量産するな。