きちがい兄貴が、俺にとってガンで、ブラックホールなのである。俺が、自動的に、誤解をうける。ほかの人から誤解をうける。ほかの人は、きちがい兄貴のことがまったくわからない。なので、きちがい兄貴が与える影響がわからない。きちがい兄貴が与える影響って、ヘビメタ騒音のことだよ。ほかの人は、ヘビメタ騒音のことを、無視している。ぼくの生活、ぼくの人生にあたえるヘビメタ騒音の影響を無視している。ぼくの感情、ぼくの行動にあたえるヘビメタ騒音の影響を無視している。そうすると、精神論になる。そういうことを言う人たちだって……えらそうに精神論を言っている人たちだって、その人たちにとってのヘビメタ騒音があれば、日常に対応できなくなる。この日常というのは、たとえば、遅刻しないで学校に通うことや、遅刻しないで会社に通うことだ。あるいは、学校や職場で、「適切な行動」をすることだ。通うことや、適切な行動をすることができなくなるのだから、そりゃ、文句を言われる。これ、障害が認められている障碍児よりも、くるしい立場に立たされてしまうのである。しかも、これを言うとまた、批判されると思うけど、頭に癖がある人の行動は、きちがい兄貴の行動と似ているのである。きちがい兄貴の反応と似ているのである。心理学者や心理学者の影響をうけた人たちは、頭に癖のある人のことは気にするけど、頭に癖がある人にやられた人のことは、まったく考えてないのだ。頭に癖のある人がやることは、頭に癖があるという理由で、ゆるされるべきだという理論を展開する。だれによってゆるされるかというと、頭に癖がある人にやられた人によってゆるされるべきなのである。どこまでもどこまでも、俺が、ほかのやつらから、やられる、ことになる。きちがい兄貴の頑張りが、そういうことに影響をあたえる。きちがい兄貴の頑張りって、きちがい的な意地で、ヘビメタをでかい音で鳴らすことだよ。一日中、きちがい兄貴にとって可能な時間はすべて、ヘビメタを鳴らすということが成り立って、いいわけがない。けど、これもまた、他人にとっては、『そんなのひとごとだから、関係がない』ということになる。けど、その他人が、あたかもヘビメタ騒音が鳴っていないかのような、行動を求めるのである。あたかも、ヘビメタ騒音が鳴ってないときのような行動を、俺にもとめるのである。「それは、むりだ」と言うと、対立関係がうまれる。ヘビメタ騒音でできなくなったと言っているだろ。影響は不可避的だと言っているだろ。こいつらはゆるさない。こいつらは、ゆるせない。
ヘビメタ騒音にやられてないやつが、「いいわけばかり、言うな」と言ってくる。ヘビメタ騒音にやられてないやつだ。こいつらだって、きちがい的な兄が、きちがい的な意地で、その人にとって騒音であるような音をずっと、あの音のでかさで鳴らしていれば、生活がみだされ、普通に行動できなくなるようになっていくのに、それが、わからない。自分の人生のなかで、しょうじたことではないから、わからない。ヘビメタ騒音と言えば、ひとことで、ヘビメタ騒音と言えるのだけど、期間の長さと、繰り返しの回数から言って、それは、ひとことですむことじゃない。たとえば、「遊園地のアトラクションでこわい思いをした」というようなことと、同じレベルのことではないのだ。期間の長さと、繰り返しの回数がちがう。どんだけ長い間鳴らされていたか、ぼくが、説明したのに、期間の長さを無視しているなぁ。一回の出来事じゃなくて、何千日も、何十万時間も、生活そのものなのだよ!! 生活そのもの。きちがいヘビメタの影響をうけてない時間がないんだよ。俺が一一歳のときから、ないのぉ!!