ヘビメタ騒音の感じがある。これは、否定できない。ほかの人には、ないわけだから、どれだけなにを言っても、根本的なことは伝わらないと思う。ほかの人には、どうしてないかというと、きちがい兄貴がずっと、ヘビメタを鳴らすということがなかったから、ない。このヘビメタが鳴っている「いちにち」というのが、ものすごく、たいへんなのだ。これだって、どれだけ説明したってわからないだろう。いちにち」のことですら、わからない。鳴っている状態、鳴っている時空がずっと続くって、どういうことだと思っているんだよ。ヘビメタとは言わず、自分がこの世で一番嫌いな音が、あの音のでかさでずっと、鳴っていたら、不可避的に影響をうける。けど、人は、うけてないので、それがわからない。不可避的ではないと思うわけだ。「しっかりと自分の意志をもっていれば、影響をうけない」と思っていたり「影響をうけないと言えば、影響をうけずにすむ」と思っていたりする。けど、これ、空論なんだよね。それは、やられてないから、実際にはどういうことなのかわからず、そういうことを言ってるという状態だ。いちにちですら、そういうことが成り立つのに、毎日ずっと、何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も鳴っていたら、どういうことになるか? どういうことになるか? そういった認知の誤謬が大きくなる。こっちの現実を知らずに、物事を言うということになる。認知療法……いちおう、俗流認知療法と言ったほうがいいかな?……まあ、認知療法や行動主義心理学や精神世界やアドラー心理学といったものを信じしている人は、そういう考え方を信じているので、「不可避的だ」ということを認めないのである。そうなれば、現実に関する、ぼくの認知と、「不可避的だ」ということを認めない人の現実に関する認知は、異なるものになる。そして、その認知の差が、きちがいヘビメタ騒音経験の数、とともに、どんどん広がっていくのである。
これは、「不可避的だ」ということを認めない人には、どうでもいいことだけど、ぼくにとってはどうでもいいことではない。生きにくくなってしまうのだ。たとえば、佐藤は常識的な人で日本人的な労働観をもっている人間だ。そういう人間は、「不可避的だ」ということを認めないのである。そして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価し、あるいは、無視して、「人間は働くべきだ」という「自分の意見」をしおつけてくるようになる。その場合、佐藤とぼくのあいだで、有効な人間関係が成り立つかというと、成り立たない。そういうことを言われたあと、佐藤といい気持でつきあうということができなるのだ。そして、外面的な行為について言えば、ぼくが働かない限りは、佐藤は、自分の意見をおしつけてくる……説得しようとするということをやめないわけだ。そして、佐藤がそういう労働観をもっている以上、これまた、不可避的に「働いてない人」を軽蔑するということがしょうじる。これは、佐藤が、意識的にやめようと思っても、やめられないことだ。「働いてない人」と書いたけど、くわしく書くと「働けるのに、働いてない人」ということになる。しかし、佐藤の場合、ヘビメタ騒音の影響を無視しているのだから、佐藤にとっては「ぼく」は、働ける人間なのだ。だから、「働いてない人」と「働けるのに働いてない人」はこの場合は!等価になる。ヘビメタ騒音にやられて働けないからだになると、必然的に、佐藤のような労働観をもった人から、「バカにされる」「軽蔑される」という結果がもたらされることになる。もちろん、きちがい兄貴が最初からそれをねらっていたわけではない。けど、ヘビメタ騒音は、ヘビメタ騒音が鳴っているという状態を作り出し、その状態の影響を不可避的に受けてしまう以上は、順番にそうなるのである。で、これは、佐藤との間にしょうじたことだけど、じつは、小学生のときからそういう問題がしょうじている。小学生のときは、働く必要がない(働くべき人間だと「常識的な他者」が思ってないから)見えないだけで、ほんとうは、同じ構造をもった問題がしょうじている。それは、ひとつひとつは小さく見積もられることだ。たとえば、「宿題をやってこない」という問題がある。宿題をやってこないのではなくて、ヘビメタ騒音で宿題をやることがどうしてもどうしてもどうしても、できなかったのだ。しかし、常識的な他者は、ヘビメタ騒音でそういうことがしょうじるということを認めない。また、基本的なことを言えば、「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「そんなのは、家族で相談すればいい」ということを言われることになる。「常識的な他者」はきちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造がわかってないので、「お兄さんに言えば」問題が解決されると思っているわけだし、「家族で相談すれば」問題が解決されると思っている。で、これが、伝わらないのである。佐藤に「不可避的に影響をうける」「その結果、働けなくなる」ということが伝わらなかったように、伝わらないのである。「常識的な他者」はきちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造を理解しない。ぼくがどれだけ明瞭な言葉で語っても、理解しない。常識的な人は、基本的に、きちがい兄貴のことやきちがい親父のことは理解しない。言ったって、わからない。これは、ぼくの説明のしかたが悪いのではなくて、相手側……常識的な人のなかに、それらに対応する「本質的な認識」あるいは「概念」がないのだ。ともかく、この場合も、お兄さんにちゃんとやめてくれと言えばやめてくれるはずなのに、言わないからダメなんだというような誤解をうける。また、「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできる」といったまちがった考え方をもっている先生だと、その先生と「ぼく」の人間関係が、悪くなるのである。