これ、むかし書いたんだけど、もう一度概要だけ書くよ。
「努力をすればできるようになる」ということについて書く。「努力をすれば」という部分と「できるようになる」という部分がある。「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということも、「努力をすれば、できるようになる」ということばの中にふくまれている。
この場合、「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということばと「努力をすれば、できるようになる」ということばは同義だ。例外はないということを意味している。
だれが、だれに、この言葉を言うのかが問題になる。ようするに、本人が、本人に対して、この言葉を言う場合は問題がない。しかし、だれかが、だれか他人に、この言葉を言う場合は、問題がしょうじる。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、会社の経営者だとする。Bさんは、その会社の従業員だとする。Bさんは、ある作業ができなかったとする。Aさんが「努力をすれば、できるようになる」と言ったとする。Bさんは、Bさんにできる最大限の努力したが、できなかったとする。この場合どうなるか?
もし、「努力をすれば、できるようになる」ということが正しい場合、Bさんは、努力をしなかったということになるのである。Aさんから見れば、Bさんができないいじょう、Bさんはじゅうぶんな努力をしなかったということになってしまうのである。
ようするに、「努力をしたのにもかかわらず、できない」ということは、最初から、Aさんの頭にはないわけだ。
「努力をすれば、かならず、できるようになる」のだから、「できない」のであれば、「努力をしなかった」ということになる。これは、Aさんのまちがいだ。
「できるようになるかどうか」は「努力をしたかどうか」とあるていど関係があるかもしれないけど、絶対的な関係ではない。
ようするに「努力をすれば、できるようになる」というのはまちがいで、「努力をすれば、できるようになる場合もある」し「努力をしても、できない場合」もあるのだ。
現実としては、努力をしてもできない場合がある。
しかし、AさんがBさんについて「努力をすればできるようになる」と言った場合は、Bさんが努力をしたにもかかわらずできない場合があるということを認めていない。最初から認めていない。
「じゅうぶんな努力」なのか「努力不足」なのかは、「できたかできないか」によって、かわるのである。
Bさんがちょっとだけ努力してできた場合でも、できたのであれば、じゅうぶんな努力をしたということになる。あるいは、Bさんが最初から努力をせずにできた場合でも、できたのなら「努力をした」ということになってしまう。
Bさんの主観とAさんの主観に、ちがいがある。そして、Aさんは、じつは、結果をもとにしてものごとを判断しているだけなのだ。「できれば」努力をしたことになるし、「できなければ」努力をしたことにならない。
これが、最初から決まっている。Bさんが、かりに、死にものぐるいの努力をしたとしよう。死にものぐるいの努力をしてもできなかったとしよう。この場合も、Aさんから見ればBさんは「努力をしなかった」ということになってしまうのだ。
だから、「努力をすれば、かならず、できるようになる」というのは、だれがだれに向かって言っている言葉かということが問題になる。かりに、