あの子と仲良くしておけばよかった。つきあっておけばよかった。
からだじゅうにまとわりつく、ヘビメタ騒音のいやな感じ……と言っても、わからないだろ。切迫感がちがうんだよ。「どれだけ言っても、やめてくれない」「帰ったあとずっとヘビメタが鳴っている」と思ったときの、破滅的な気持と言ったらない。これ、ほんとう、きちがい兄貴を殺すしか、ぼくには、手がなかった。きちがい親父も、きちがい兄貴が、あのでかい音で鳴らすことに協力していた。普通だったら、一日目に文句を言うはずだ。たとえ、鳴り終わったあとに帰ってきて、俺から話を聞いたとしても、「やめさせよう」と思うのが、普通の人だ。きちがい親父は、スイッチの入り方がちがうんだよなぁ。「そんなのしかたがない」「そんなのしかたがない」と兄貴を注意しない方向でスイッチが入る。そうしたら、梃子でも動かないという状態になる。この梃子でも動かない状態というのは、きちがい兄貴の状態でもある。梃子でも動かないのである。どれだけ言われても、絶対に、自分がやろうとしたことはやるのである。しかも、自分が思ったとおりの音でやらなければならず、相手が言っている音まで落とすということが、できない。スイッチが入ったときの親父おなじ頑固さで、否定する。そして、そうやって、意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!やったことは、全部、やってないのとおなじことなのである。この、意地になっやったことが、やってないことになっている……というのが、おやじとおなじなのである。兄貴は、おやじとおなじように意地になってやって、兄貴は親父とおなじように、意地になってやったことを、意地になって否定するのである。これ、こまるんだよ。
つもっている……。
この「つもっている」……ということを、普通の人は無視する。つもっているの……。つもっているから、くるしいんだよ。つもっているときは、すでに、つもった状態なんだよ。
状態を無視して、「いいことを考えればいいことが起こる」「悪いことを考えると、悪いことが起こる」「楽観的に考えれば、楽観的なことが起こる」「悲観的に考えると悲観的なことが起こる」なんてことは、言ってられない状態なんだよ。これは、言霊とおなじように因果関係を逆転させている。すでに状態があるんだよ。
たとえるなら、ふかふかな椅子に座っている人が、一〇〇本の毒針がはえた椅子に座っている人に向かって、「痛いというから痛くなる」「くるしいというからくるしくなる」と言っているようなものだ。すでに、針が刺さっていたいんだよ。すでに、毒がまわってくるしいんだよ。それを、「いったからそうなった」と誤解しているのである。「痛い」という前に、針が一〇〇本はえた椅子に座らされた。だから、いたいと言っている。針が一〇〇本はえた椅子に座る前は、「いたい」と言ってないのである。針が一〇〇本はえた椅子に座ったから「いたい」と言ったのである。順番がちがう。けど、ふかふかな椅子に座っている人は、「ひとごと」なので、まず、自分が「いたい」わけではないという状態が成り立っている。そして、ひとの「いたみ」に鈍感なので、相手が座っている状態を無視して「痛いと言うから痛くなるんだ」と言うわけである。さらに、「痛くない痛くない、と言えば痛くなくなる」と言うのである。ふかふかな椅子に座っている人にとっては、それは「事実」なのである。だから、容赦ないよ。原因についてまちがった認知をしているということは、認めない。認めないとしても、ふかふかな椅子に座っている人は、まったくこまらない。
言霊ではなくて、引き寄せにこだわっている人も、同じような考え方をする。引き寄せにこだわっている人がふかふかの椅子の上に生まれたなら、「痛いということを引き寄せた」「たい状態を引き寄せた」と言うのである。つまり、針の上に座っている人は、針の上に座っているような状態を引き寄せたからダメなのだということを言う。そして、針の上に座っている状態から、ふかふかな椅子に座っている状態に移行するには、フカフカな椅子を引き寄せればいいのだということを言う。けど、どれだけ、ふかふかな椅子を引き寄せるために、「ふかふかな椅子……ふかふかな椅子……」と言っても、針の上に座っている状態がかわらない。「針の上に座ってくるしい」という状態がかわらない。そうなると、これまた、「ふかふかな椅子を引き寄せる力がないからダメなのだ」ということを言うわけである。生まれたときに、針の上に座るか、ふかふかなクッションの上に座るかが決まっている。その結果、針の上に座らせられた人間は、「いたい」と言い、ふかふかなクッションの上に座らされた人間は「特にいたくない」と言う。ずっと座っていればふかふかなクッションの上に座っていても、いたいときはあるので「自分だっていたいときはある」「それを乗り越えてきたんだ」「乗り越える方法は、楽な状態を思い浮かべることだ。楽な状態を引き寄せることだ」とふかふかなクッションの上に座ったまま言うのである。状態がちがうのだけど、状態がちがうということを、こういうことを言う人たちは、まったく理解できない。そりゃ、生まれてからずっとふかふかなクッションの上に座っているわけだから、針の上に座っている状態が、わからない。けど、ときどき、いたくなるので、いたいというのはこういうことだと思ってしまうのである。だから、相手もこういう状態で、いたみを感じているだけなんだと思い込んでしまう。そして、そのうえで、相手が痛い痛いと言っているのはけしからんことだと思うようような教育がなされているので、「引き寄せ能力の差」だと思ってしまうのである。痛さのちがいはある。状態のちがいはある。そして、その状態のちがいというのは、能力のちがいではないのである。しかし、引き寄せを信じている人は「能力のちがいだと思ってしまうのである。たとえば、「引き寄せ能力」と言うようなわけのわからない能力を設定して、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」と思ってしまう。「不幸な人は、不幸を引き寄せているからダメなんだ」と思ってしまう。「不幸な人は、不幸を引き寄せているからダメなのだ」と思う場合、不幸な人は、不幸を引き寄せる思考をしているからダメなんだと思っているのである。しかし、「思考」の問題ではなくて、「状態」の問題なのだ。その状態というのは「所与の状態」だ。生まれたときに決まってしまう状態だ。だから、ほんとうは、「思考」の問題ではなくて、「状態」の問題だということを認知してないということになる。「思考」を「性格」と言い換えてもおなじだ。「性格」の問題ではなくて、「状態」の問題なのに、「状態」を無視して、性格の問題に「してしまっている」のである。もちろん、「たにんごと」なので「だからダメなんだ」と言える。「性格が悪いから、不幸を引き寄せているんだ」と普通に思ってしまうのである。状態は、性格が作り出したものなのである。しかし、ほんとうは、所与の状態が問題なのである。所与と書いたけど、ようするに、「うまれながらの」ということだ。これは、アドラーのところで書いた。こういう人たちは、他人の状態を無視して、筋違い、見当違いの説教をすることで、よろこびにひたっているのである。まちがったダメダシをして、よろこんでいるだけだ。自分が有能だと思いたいだけなのである。自分が特別だと思いたいだけなのである。「それにくらべておまえらは、不幸なことばかり言っているから不幸になるんだ」と言いたいだけなのである。これらの行為が「いい行為」なのかどうか?