きちがい親父がやったことやきちがい兄貴がやったことを「自分」にやったことを経験すれば、やはり、無気力になったり、楽しめなくなったりする。けど、ほかの人は、自分のこととして、きちがい親父が「俺に」やったことやきちがい兄貴が「俺に」やったことを経験してないんだよな。どれだけの影響があるからないと思う。そして、それは、ただ単に影響があるということではなくて、そのなかで、もがき苦しみ努力したというこちら側の反応の影響もあるのだ。そりゃ、どれだけ、言っても、相手が聞かずにやってしまったというのであれば、無力感がしょうじる。実際に、ヘビメタが鳴っている状態というのを経験してない人が、ぼくに対して「とやかく」言う必要はない。言う権利自体がない。不適切なのである。「とやかく」言う権利がないのに「とやかく」言うので、不適切な行為をしているということになる。
あとは、きちがい的な親兄弟にやられた人が、みんな、言いにくいことなのだけど、これ、ほんとうに、「やられぞん」なのである。
きちがい的な親兄弟にやられたことというのは、きちがい的な親兄弟にやられたことがない人にはまったく想像もつかないことなのである。けど、正常な親兄弟とも、行き違いはあるし、喧嘩をすることもあるということで、「にたようなこと」は発生しているのである。だから、「にたようなこと」は「おなじ」だと、人気してしまうのである。それは、たとえば、「困難」という単語があらわしている内容が、ひとによってちがうにもかかわらず、「困難」という単語が、「困難」という単語として使われているという問題にも関係する。だいたい、構造はおなじだ。「しりえないこと」あるいは、「しりえなかったこと」について、言及しているのである。
「泣き言をいうことはみっともないことだ」というような共同幻想がある……とする。「自分の弱みを見せることは、よくないことだ」というような共同幻想がある……とする。その場合、現実的に、頭がおかしい親のもとに生まれると、不幸なことがつみかさなるのだから、頭がおかしい親のもとに生まれた子供と、頭がおかしくない親のもとに生まれた子供では、基本的な「ふこうりょう」がちがうということになる。しかし、基本的な「ふこうりょう」がちがうということは、無視されて、「泣き言をいうことはみっともないことだ」「自分の弱みを見せることは、よくないことだ」という前提のもとに「わかったようなこと」を言うことになるのである。頭がおかしくない親のもとに生まれた人は、「わかったようなこと」を言うことになる。この「わかったようなこと」というのは、まあ、アドラー主義者が言うようなこと、認知療法家が言うようなこと、言霊主義者が言うようなこと、精神世界の人が言うようなことだ。「世の中というのはこうだ」「それでも、がんばらなきゃいけないんだ」「受け止め方をかえれば、いい」「楽観的になることが必要だ」「楽観的になれば、楽観的なことを引き寄せて、悲観的になると悲観的なことを引き寄せる」……などという、ばかげたことが、さも正しいことのように言われてしまう。これは、ばかげたことだ。ほんとーーに、ほんとーに、ばかげたことだ。ぼくは、いままでずっと、これらのことがどのようにばかげたことなのかということについて、ずっと説明をしてきた。頭がおかしくない親のもとに生まれた人にとってみれば、おもしろくないことだ。興味がわかないことだ。しかし、なんだろうが、言わなければならないことなのである。
頭がおかしい親のもとに生まれた人は、説明をすることなく死んでしまう。説明がむずかしいのである。基本的な「ふこうりょう」を無視して、頭がおかしい親のもとに生まれた人を侮辱するのはゆるされることではない。
頭がおかしくない親のもとに生まれた人は、ただでも、頭がおかしい親のもとに生まれた人に「わかったようなこと」を言って、追いつめる。基本的な「ふこうりょう」を無視して、「わかったようなこと」を言って、頭がおかしい親のもとに生まれた人を自殺に追い込む。言いたいのは、基本的な「ふこうりょう」を無視するなということだ。