役に立たないアドバイスのことについて書いた。この、役に立たないアドバイスは、アドバイスされた人をうちのめすのである。ほんとうに必要なのは、ふかふかな椅子を用意してやることだ。
傷を消毒して、それなりの手当てをして、ふかふかな椅子に座らせてやることだ。
ところが、針がついた椅子に座らせたまま、「元気だ元気だと言えば元気になる」「被害者意識をすてれば、しあわせになる」「感謝の気持ちをもてば、しあわせになれる」「たましいが、そうなることを選択したので……つまり、針がついた椅子に座ることを選択したので……自己責任だ」と説教をしはじめるのである。
針がついた椅子に座らされてこまっている人は、こまっているという点において、回答を求めている。ふかふかな椅子に座っている人は、こまってないので、適当なアドバイスをすることができる。
この適当なアドバイスがまったく(相手にとって)無意味なものであったとしても、アドバイスをするほうはまったくこまらない。
それどころか、相手がその状態にとどまれば、それだけ、いい気持ちで説教をすることができるということになる。カネのやり取りもあるかもしれない。もちろん、針がついた椅子に座っているほうが、ふかふかな椅子に座っているやつに、カネを払うのである。
これ、逆だろ。
ほんとうなら、ふかふかな椅子に座っているほうが、針がついた椅子に座っているほうに、カネをやるべきだ。そのカネを使って、ふかふかな椅子を買って、ふかふかな椅子に座ればいいということになる……針がついた椅子に座っている人は……。
けど、実際には、そんなことはなくて、ただ単に、アドバイスをうけるだけなのである。「自己責任」「自己責任」「おまえが選んだ」「おまえが選んだ」。こうやって、せめられるだけなのである。
ああ、ちょっとだけ、努力うんぬんについて言っておこう。たわごとを言わないで努力をすればよいのだというアドバイスがある。ようするに、「いたい。いたい」と言うのではなくて、ふかふかな椅子に座れるように努力をすればいいというアドバイスだ。
生まれたときに、針がついた椅子に座らせられたやつは、一生、針がついた椅子に座ったままだ。これ、努力じゃ、かわらないのである……。まあ、これは比喩だけどね。
しかも、生まれたとき針がついた椅子に座らされた人が、針がついた椅子から、ふかふかな椅子に移動することは可能だと言うのだ。……生まれたときにふかふかな椅子に座らされたやつが、生まれたとき針の椅子に座らされたやつに……言うのだ。
生まれたからふかふかな椅子に座っている人は、一度も、針の椅子に座るということを経験してない。
ところが、無慈悲で、相手の状態をよく見るということをしない人間は、そういうことを平気でする。そして、自分は努力したからふかふかな椅子に座っているのだと自慢する。こういうことをすること自体が、よくないことなのである。
どうしてかと言うと、生まれたときに決まったことを、くつがえせないような社会に生きているから……だ。あるいは、生まれたときに決まったことをくつがえせないような社会を維持しているから……だ。
これ、悪魔がこういう「構造」を作り出しているとすると、その「構造」のなかで上位に位置する者は、そういう「構造」を維持することに同意する。あるいは、積極的に維持しようとする。
悪魔が作り出した構造に親和的な存在になる……上位の者は。
この上位の者というのは、ふかふかな椅子に座っている者だ。社会の構造はこういう構造で、こういう構造をつくった悪魔が構造を通して人を支配すしているのである。
ようするに、上位の者は悪魔の支配に親和的になる。悪魔の支配をより強くしようとする。悪魔の支配をより長く維持しようとすることになる。そして、そういう自己中心性を心のなかに育ててしまう。
生まれたときにふかふかな椅子に座らされた……と表現すると、なにか場ちがいな感じがするけど、「座らされた」でいいと思う。本人が選んだわけではなくて、ランダムに決まってしまう。
だから、「された」でいい。
しかし、ふかふかな椅子のうえに「うまれた」でもいいような気がする。赤ん坊だから、「うえ」でいいだろう。ふかふかな椅子のうえに「うまれた」人は針がついた椅子のうえに「うまれた」人の状態を、自分の経験を通して、理解することができない。すべて、聞いた話だ。
そして、問題なのは、理解していないにもかかわらず、理解しているつもりになっているということだ。
だから、「わかって言っている」という傲慢な態度がうまれる。
そして、「わかってないのだ」ということを理解しない。
そのままだ。
ひとごとなので、わからないのである。また、針のついた椅子の「拘束力がわからない」。見た感じ、関係がないと思って、無視してしまう。
条件の無視……は、ほんとうは、悪いことなのだけど、「なにかすごい能力」のように思っているのだ。……アドラー主義者はそうだ。
相手がなにを言ってきたって、それを、相手の人格の問題だと思って無視する能力が高ければ高いほど、人間としてすぐれていると思ってしまっている。これは、もとの言い方にしたがえば、「悪魔の支配」に親和的だということだ。