どれだけ相手が「がみがみ言ってきたとしても、それは、相手の問題だから、相手にする必要はない」というような考え方がある。これについて考えてみたいと思う。
まず、「がみがみ言ってくる」というのは、マイナスのイメージあたえる言い方だ。
「がみがみ」というのが、不快感をしめしていて、なおかつ、「がみがみ」言っていることが不当だという認識があるということをしめしている。
つまり、がみがみ言われている人が、がみがみ言っている人の言っていることが不当な内容だと考えているということを暗示している。
ようするに、彼が言っていることは「なにか、へんなこと」を「がみがみ」言ってきたけど、そんなのは気にする必要がないということだ。
「がみがみ」というのは、怒りの程度をあらわす言葉だと思う。怒りには程度があり、怒りの表出にも程度がある。たいていの場合、怒りの程度が高ければ高いほど、怒りの表出のレベルも高くなる。これは、相手の側の怒りの表出だ。
こういうことを言う人たちは、怒りの程度について言及をしている。どれだけ相手が怒りを表出したとしても、それは、相手の問題だから気にする必要がないという意見だ。しかし、この人たちが忘れているものがある。
それは、自我だ。善悪の基準の問題だ。道徳観の問題だ。相手が言っていることが正しいなら、素直に反省すればよいということも、こういう人たちは、言う。
しかし、相手が言っていることが正しいと思うことができるのか?
きちがい兄貴にしたって、このくらいの音でヘビメタを何時間も何時間も鳴らすことは、別にやってもいいことだと思ってやっていたのである。その場合、ぼくが、「でかい音だから静かにしてくれ」「フォークギターぐらいの音にしてくれ」と言っても、相手が不当なことを言ってきたと思って、しずかにしないのである。
きちがい兄貴の自我の基準から考えると、このくらいの音で鳴らしてもいいということになっていたのである。その「いいこと」に文句をつけてくるのは、相手の問題だと思っていたのである。自分には関係がない問題だと思っていたのである。
「迷惑行為」をやる人間は、ここらへんの基準が、普通の人の基準一致してないことが多い。本人は、「迷惑行為をしているつもりがない」のである。
むしろ、「やめろ」「しずかにしてくれ」と何回も絶叫している相手のほうが、悪いと思っているのである。自分は、悪いことをしてないのに、相手が「がみがみ」言ってくると思っているのである。
なので、素直に反省することができるかというとできない。
これは、きちがい兄貴に限ったことではなくて、アドラーにしてもおなじなのである。ただ、アドラーは、感覚器を書き換えるということをしてないし、アドラー自身の善悪の感覚が「普通の人間」とだいたい同じだったので、特に目立つ!!迷惑行為をしてないだけなのである。
アドラーにとっては、そこらへんの感覚が、わりと絶対的なもので相対的なものではないのだ。なので、だれもが「反省できる」と思っている。しかし、アドラーもそうだけど、反省できるとは限らない。
それは、善悪の基準が人によって相対的で、今現在その人がそれを「自信をもってやっている」とすると、その人とっては、その行為自体は、他人に迷惑をかけるような行為ではないのである。
あるいは、他人に迷惑をかけるということが悪いことだと思ってないのである。相手が「必死になって」「やめてくれ」と言ってきたとき、相手の立場を理解してやめてあげるのか、それとも、相手の立場を理解せずにやり続けるのかは、自我が決定しているのである。
その自我というのは、善悪の基準をもっている自我なのである。
もう成人しているのであれば、わりあい強固な自我をもっているものと思われる。
だから、たいていの場合、正しいと思ってやっていることをやめたりはしない。それから、相手の立場に立って考えることができる能力というのは、だいたい人によって決まっているのである。
アドラーやうちの兄貴は、この能力が極めて低いのである。相手の立場と自分の立場をいれかえて考える能力が、ともに、低いのである。けど、アドラーの善悪の基準は、「普通の家」ものだったので、うちの兄貴のように、特に問題となる行為をしてないだけなのである。
自我の相対性……つまり、善悪の基準の相対性……の問題は、アドラーのような人間にも、成り立つことだ。
「普通の家」と書いたけど、これは、「家」そのものの問題ではなくて、「親の自我」の問題なのである。アドラーの場合、親がよくできた親なので、逸脱行為(社会的な迷惑行為)をしなくてもすんだだけなのだ。
構造自体の本質はかわらない。それから、冒頭で「相手の問題」と書いたけど、くわしく書くと「相手」の「こころの問題」ということになる。「相手のこころの問題」と書くと「の」が連続するのでやめておいた。