実際にある格差を無視してはいけない。この格差は構造的な格差だ。構造的な格差を無視した道徳観は、道徳的なものではないのである。非・道徳的なものなのである。
しかし、普通の人は、実際にある格差を無視して考えることに、慣れ親しんでいるので、それが、異常なことだとは思わないのである。ようするに、格差を無視することに慣れ親しんでいる人は、実際には非・道徳的な思考をし、実際には非・道徳的な行動をしているのに、それが悪いとは思わないのである。
そのような洗脳が、日々おこなわれているので、ほとんどの人が「そういう先入観」をもって、考え、行動するということになる。無職、ニート、ギリケンに対する思考にもそういうことが反映されている。
けど、あまりにも深く、そう思っているので、反映されているとは思ってない。
地下の牢獄で泣きわめいている子供は、暗いので、だめなやつなのである。泣きわめくという、無意味なことをしても、ぜんぜん事態が完全されることがないのにそういうことをやっているあほな存在なのである。拘束され、首の後ろに、針が突き刺さり、その針から、血が抜かれたら、泣きわめくことだってあるだろう。それが、だめなことだと言うのである。
一方、親切な親に連れていかれて、カヌーを楽しんでいる子供は、明るいのでいいやつなのである。明るいやつは、いいことを引き寄せて、 暗いやつは、悪いことを引き寄せる……ということが正しいこととして流通してしまう。
これは、時系列的なことを無視しているから、そうなる。
あるいは、因果関係を無視しているからそうなる。
泣きわめいている子供は、性格が暗いので、そういう現実を引き寄せたのだ……ということを、精神世界系の人が、得意げに言う。しかし、つかまって、虐待されたから、暗い性格になっているのである。カヌーを楽しんでいる子供は、そういう楽しいことができる状態だから、明るい性格になっているのである。実際に起こった出来事に反応しているだけだ。
ところが、因果が関係を無視している人は、暗い性格だから、虐待されていると考えてしまうのである。因果関係を無視している人は、明るい性格だから、親と一緒にカヌーを楽しんでいると考えてしまうのである。