地下の牢獄で、鎖につながれて、実験材料として生きている子供たちがいるとするだろ。その子供たちが、ビデオで、ほかの子供たちがカヌーに乗って楽しんでいるところを見たら、どう思うか。格差がある。不公平感をもつことになる。
しかし、アドラー主義者は、この「不公平感」を「嫉妬」と言い換えてしまうのである。
「嫉妬」という感情をもつ悪い性格の子供たちだということになってしまうのである。「嫉妬」は負の感情だということになっている。そうなると、精神世界の人がこの子供たちは、「嫉妬」という「負の感情」をもっている悪い子供たちだとみなしてしまうのである。
「嫉妬は、悪い波動を出している」などと言いだす。
嫉妬と書いたけど、ねたみでもいい。「ねたみの気持ちをもっているので悪い波動を出している」ということを言いだす。主語は「こういう子供たちは」だ。「こういう子供たちはねたみの気持ちをもっているので悪い波動を出していると精神世界の人たちが言うのである。
ぼくが「回収」しなければならないと言っているのは、こういうことが起こらない世界にしなければならないということを言っているのだ。組織的なレベルでもそうだし、家族的なレベルでもそうだ。 この場合は、子供たちをさらって、実験材料として使うような悪い組織を壊滅させなければならないということになる。
けど、それでも、きちがい的な親による虐待もある。この場合も、なるべく「回収」されなければならないのである。「なるべく」ではあるけど、回収されなければならない。
ところが、アドラー主義者は、「回収」ということに興味をもたず、そんなのは、自己責任だと言い出すのである。虐待サバイバーにも、「過去のことは関係がない」「トラウマはない」ということばをあびせかけるのである。精神世界の人は、虐待された子供に「それは、学びだ」と言うのである。
「魂がそういう親のもとに生まれることを選んだ」ということを言うのである。こんなのは、妄想。勝手に妄想で、決めつけるな。アドラー主義者も精神世界の人も、「回収さなくてもいい」という方向をむくのである。
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