アドラーの罠を見抜けるやつがいないのだ。みんな、罠にかかっている。これは、回収されない世界で、きれいごとを言っているのとおなじだ。回収されないことを前提にして、人にいやなことおしつけて、平然としていられる。これは、人間としてあってはらない態度だ。
しかし、ワクチン信者からワクチン反対者を見たように、すべてが、正反対になってしまうのである。
善が悪に見え、悪が善に見えるのである。アドラーの罠にかかると、悪が善に見えるのである。善が悪に見えるのである。アドラー自体はたいしたことがないやつだから、意図してやっていることではない。しかし、アドラー自身が、善が悪に見え、悪が善に見える病気にかかっているようなものだから、そういう人間から見た社会について、うまく語っているのである。ほんとうは、アドラーが善だと言っているものが悪、アドラーが悪だと言っているものが善だ。
たとえばの話だけど、子供たちが固定され、虐待され、首の後ろに針を刺されているとする。そういうことをしている場所にAさんがいるとする。Aさんが「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」と言ったら、どう思うか?
ひどい話だとは思わないか?
そりゃ、子どもたちが刺されているだけで、その人……見ている人は刺されていない。だから、別にいたくない。だから「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」と平然と言える。それでいいのか? それでいいのか?
アドラーが言っていることは、こういうことなんだぞ。
固定され、虐待され、首の後ろに針を刺された経験がある子供が大人になれば、その大人に、「過去なんて関係がない」と言う。
そういうことがない世界で、「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」「過去なんて関係がない」と言うことは、理解できるけど、実際の世界では、そういうことがいくらでもある。実際の世界は、そういうことに出くわしてしまう人がいる世界なのである。そして、アドラーが言っていることを信じると、そういうことに出くわした人間に、冷淡になるのである。無関心になるのである。アドラーを信じてまうと、そういうことに出くわした人間が、不平不満を言っている、悪い人間に見えてしまうのである。逆でしょ。
だから、回収しなければならないのである。過去のことだろうが、なんだろうが、やられたことに配慮がされなければならないのである。できれば、そういうことが起こらない世界を目指すべきなのである。けど、そういうことがまったく起こらない世界というのは、ない。だから、即座に、回収されて、配慮がなされなければならないのである。
きれいごとを言うのであれば、きれいな社会になってなければならないのである。それを……。きたない社会のなかで、きれいごとを言う。そういうことを言うやつが、実際にくるしい目にあったやつを、さらに苦しめる。これがこの世の姿だ。アドラーを信じている人は、そういうことに貢献する。いっけん、正しそうなことを言っているけど、まちがっている。