まあ、言霊主義者も、最後には、「元気だ元気だ」と言っても、ぜんぜん元気にならない状態を経験して、死んでいくわけだ。
「元気だ元気だ」と言っても、ぜんぜん元気にならない状態を、俺は、ヘビメタ騒音で経験茶ったわけ。毎日毎日、ずっとずっと、何時間も何時間も経験しちゃったわけ。
経験して言っているんだからな。「元気だ元気だ」と言わなかったわけじゃない。
これ、(後でちゃんと説明するけど)ふかふかな椅子に座っている人が、注射器の針のように、穴があいている針がはえている椅子に座っている人に向かって、「元気だ元気だ」と言えば、元気になると言っているようなものなんだよ。本人は、ふかふかな椅子に座っているから、相手の状態がわからない。自分の感覚としてはわからない。 ふかふかな椅子に座っている人が、注射器の針のように、穴があいている針がはえている椅子に座っている人に向かって、「いたい、いたい」と言うから、いたくなる……と言っているようなものなんだよ。ふかふかな椅子に座っているから、相手の状態がわからない。自分の感覚としてはわからない。
お尻に針が刺さっているなら、いたいと思うだろう。ふかふかな椅子に座っている人は、お尻に針が刺さってないから、いたいと思わないだけだ。自分が相手の状態だったらどうなのかということがまるでわからない人なんだよ。そういう自分勝手な人なんだよ。だから、そういうことを平気で言う。
尻に、針が五〇本刺さっていたら、いたいと思うだろう。ところが、「いたい」と言ったら、言霊主義者が「いたい」と言うから、いたくなるということを言ってくる。それをほんとうに信じている。さらに、血がぬけていく状態が、ある時点からある時点まで続いていたら、血がぬけたという意味で、過去のことは、現在の状態に関係がある。けど、「過去なんて関係がない」と言う。血がぬけて、元気がなくなっているのに、「元気だ元気だ」と言えば元気になるということを、言う。相手の状態は、がん無視だ。自分のことしか考えてないのである。相手と立場をいれかえて考えてみるということをしないのである。考えたつもりになっても、実際に、自分が、針のはえた椅子に座っているのでなければ、いたいということも、血がぬけて元気がなくなるということも、まったくわからないままなのである。
もうちょっと、言っておく。状態と性格をいれかえて考える人たちがいる。たとえば、ちがぬけていくような針が刺さっている状態で座っている人は、針が刺さっているから、いたいと言うわけだ。この状態がかわらない限り、いたさは続く。死ぬまで続くだろう。ところが、アドラー主義者みたいなやつは「痛い痛いと不満を言う」人と形容してしまうのだ。針が刺さっているから痛い。その針から血がぬけていくので、元気がなくなる。ところが、不満を言う人は、不幸だ。不幸な人は、不満を言う……不満を言う人はみんな不健康だ……というようなことを主張する。そういうことを言っている人たちだって、針が刺さっている状態になれば「いたい」と言う。血がぬければ、元気がなくなる。これは、「状態」がもたらすものだ。けど、これを、そういう人の性格だと言い切ってしまう。たまたま、自分がふかふかの椅子に座っているから、不満を言わないだけなのに、針の刺さった椅子に座っている人が、ふかふかな椅子に座っているのに、不満ばかり言う……と考えてしまうのだ。相手の状態を無視して、「不満を言う人」と形容してしまう。たとえば、不満を言う人は、不幸だ……という文について考えてみよう。これは、正しいように聞こえるかもしない。しかし、じゃあ、不満を言ってない人が、針が刺さっている状態になったら不満を言わないのかどうかだ。これも、「状態」と「性格」を言い換えているから、正しいように聞こえるだけだ。そりゃ、針が刺さっている状態なのだから、不幸だ。尻に五〇本の針が刺さっていて、その針から自分の血がぬけていっているのだから、不幸だ。この状態が幸福な状態か? これは、状態なのである。性格でもないし人格でもない。まあ、人格ということばを使ったほうが、正確なのか? ともかく、アドラー主義者は、状態をあたかも人格のように言い換えてしまうのである。そうやって、くるしい状態の人をディスる。このディスるというのは、軽蔑する、誹謗中傷する、ばかにするということばをあわせたような言葉だと思ってくれ。ていよくディスるのだ。だれだって、「いたい」というような状態なのに、「いたい」と言っているところを見て、「いたい」という性格の人だと思ってしまうのである。アドラー主義者には、こういう、幼児的な感じ方がある。アドラー主義者にはこういう、自己中心的な感じ方がある。