うしろに後退している、あるいは、うしろにすすんでいるということを考えなければならないのである。日常のトラブルで、かならず、うしろにすすんでいるのである。それは、不可避なことなのである。きちがい的な家族と一緒に暮らしていて、日常的なトラブルが生じないということはない。きちがいは、きちがい的な理由で怒り狂う。自分」が怒り狂われた場合、きちがいが自分に怒り狂ってきたという現実認識が生まれる。これは、「きちがい的な理由で怒るのは、きちがいである親の内面の問題なので、自分には関係がない」と思って、ぶっちぎることができないことだ。これを、「できる」と思っている紳士的な人たちは、きちがいの親と一緒にすむという経験がなかったか、きちがいの親が作り出す状態がわかってないだけだ。こんなの、強がり。「なぐられたあとに、自分はなぐられたわけじゃない」と思うことに似ている。「なぐられたあとに、なぐってきたほうの心理的な問題だ」と思っても、なぐられたので痛いという事実が消えない。事実がもたらす実感が消えない。つよがって、現実認識を書き換えようとしてもむだだ。こいつらは、むりなことを要求している。どうして、当然のことととして、むりなことを要求できるかというと、むりなことだとは思ってないからだ。こいつらは、自分の地位が確立したあと、自分が優位な立場にたっているとき、きちがいが自分に襲い掛かってきたという状態しか経験してない。これはぜんぜんちがうことなのである。まあ、「きちがいが自分に襲い掛かってきたという状態しか経験してない」と書いたけど、これは、比喩だ。別に、ほんとうに、きちがいが自分に襲い掛かってなくてもよいのである。「きちがいが侮辱してきた」ということについても、成り立つ。自分の地位が確立され、相手の地位が、まさにきちがい的なものであれば、公的には、自分が言っていることが正しいということが、ほかの人たちにわかるので、「きちがいが自分を侮辱してきたとしても、それは、きちがいの内面の問題で自分には関係がない」と言うことができる。この場合は、つよがりではない。しかし、それは、ほかの人たちにも、「状態がわかっている」という前提の上で成り立つ話だ。自分の社会的地位が高く、相手の社会的な地位が低いという前提が成り立っていなければならない。社会的な地位が高いだけではなく、実際に、わりとカネをもっているような状態でなければならないのである。まあ、社会的な地位とカネはわりと相関関係がある。これ、ほんとうに、生まれの格差・親・上、生まれの格差・親・中であるような人が、きちがい的な親にたたられずにすごしてきて、社会的な地位をえることができたので、そういうきれいごとを言えるだけだ。これが、生まれの格差や地合いが黒であることを無視して、流通してしまう。生まれの格差や地合いが黒であることを無視できるのは、その人が、めぐまれた状態で暮らしてきたからだ。今現在、社会的な地位が高いからだ。他人がどういう苦労をしてきたのか、わからないから、言える言葉だ。ようするに、経験がないから、経験がないという意味で「わからない」だけだ。わからないから、言える言葉だ。
頭にクセがある家族と一緒に暮らしたことがない人は、それがどういうことだかわからない。空想でものを言うなぁ!