みんな、アドラーのことがまったくわかってない。アドラーにはじつは、人の気持ちを「気にする」能力がないのである。そういう、脳みその部分が欠落している。人の気持ち「気にしすぎる人」が増えたとする。この人の気持ちを気にしすぎる人たちとというのは、人の気持ちを気にする能力がある人たちなのである。気にしすぎてしまうわけだから、気にする能力がある。アドラーとアドラー信者は「人の気持ちを気にする能力」がまったく無駄なもので、有害なものだと考えているようだけど、これはちがう。人の気持ちを気にする能力は、じつは必要なものだし、有益なものなのである。しかし、「いきすぎる」と問題がしょうじる。……この世界と言うのは、悪魔が支配しいてる世界なのである。そして、その世界には強固な階層があるのである。この強固な階層のことを、ぼくは、椅子で表現したわけ。生まれの格差がある。生まれの格差があるということは、ひどい親にやられる子供が出てくるということだ。しかし、生まれの格差を無視する思考がはびこると、この人たちに対する(こういう子供たちに対する)思いやりの気持ちがなくなってしまうのである。思いやりの気持ちがなくなった人間にしてみれば、ひどい親にやられた子供はだめな子供だということになってしまう。人間が、人間に対してオオカミになっている状態なのである。階層のなかで、有利な人間が不利な人間に対して、ダメダシをおこなうような状態になってしまっている。みんな、こういう思考にとらわれた人は、他人に対する愛をうしなってしまう。みんな、こういう思考にとらわれた人は、他人に対する思いやりをうしなってしまう。
アドラーが他人の気持ちを「気にしない」にもかかわらず問題を起こさないのは、じつは、アドラーの親がまともだったからなのである。もうちょっと正確に言うと、アドラーの善悪に関する感覚は、共同幻想の善悪に関する感覚とほぼ一致しているのである。だから、アドラー自身は問題を起こさないわけだけど、それは、たまたま、そうなっているにすぎない。なにが正しくて何が悪いことなのかと言うことに関する人間の感覚と言うのは、それぞれ、ちがうんだよ。ズレがあるわけ。もうちょっと、くわしく言うと共同幻想の善悪に関する感覚と本人の善悪に関する感覚がずれている人もいるわけ。そうなると、共同幻想の善悪に関する感覚と本人の善悪に関する感覚がずれている人が自信をもって、迷惑行為をするということになる。アドラーの言うことのなかには、じつは、自信をもって迷惑行為をする人をいさめる部分がない。むしろ、奨励しているのである。自分勝手なことをしていいと言っているのである。なにが、迷惑行為で、なにが自分勝手な行為なのかということについて、ちがいがあるということが、まったくわかってないのである。アドラーはたまたま、めぐまれたところに生まれたから、自分の感覚が正しいと思っていて、みんなそのくらいわかると思っていのである。ようするに、自我がちがうので、善悪の感覚がちがうということを、がん無視している。この、アドラーの単純さは、罪深い単純さだ。恵まれている家に生まれたので、まったく、わかってないのだ……。共同幻想の善悪の基準と個人の善悪の基準がそれほどずれていない親の元に生まれたので、アドラーはそういう親ばかりではないということが、まったくわかってないのだ。そして、他人の状況を理解することができないという能力の欠乏によって、この感覚が強化されてしまっている。