初期値の異常。初期値の格差。これが問題なんだよ。生まれたときに、多くのことが決まってしまう。だいたいの、不幸の総量は、生まれた場所で決まってしまう。
アドラー主義者は不幸な人には、一切合切、同情しない。不幸な人は、悪い人だから不幸になっていると考えるのだ。しかし、現実世界はどうだろう? 現実世界というのは、こんな世界だ。
たとえば、一〇段階の椅子がある。一段階目の椅子は、ふかふかなクッションがついている椅子だ。そして、一〇段階目の椅子の上には五〇本の針がついていて、その五〇本の針は注射器の針のように中心に穴があいているので、座っていると血がどんどん出ていってしまう椅子なのである。
五段階目の椅子は、普通の椅子だ。しかし、クッションはついてない。
一段階目の椅子のクッションは十センチ、二段階目の椅子のクッションは、八センチ、三段階目の椅子のクッションは五センチ、四段階目のクッションは二センチ、五段階目の椅子にはクッションがついてない。
しかし、五段階目の椅子はちゃんと座れる椅子だ。
六段階目の椅子は、座面が凸凹していて、座りにくい。七段階目の椅子は、座面に、二〇本の針がついている。八段階目の椅子は、座面に四〇本の針がついている。
九段階目の椅子には、座面に五〇本の針がついていて、注射器とおなじように、針の中心が空洞になっているから、針が刺さった部分から血がぬけていく。
一〇番目の椅子は、座面に一〇〇本の針がついていて、九段階目の針とおなじように、針の中心が空洞になっているから、針が刺さった部分から血がぬけていく。
生まれたとたんに、どれかの椅子に座らされる。
それは、ランダムに決まる。
ふかふかな椅子に座る人が、前世でいいことをしたとか、針がついている椅子に座る人が前世で悪いことををしたということはない。
ただたんに、ランダムに決まってしまうのだ。
ふかふかな椅子に座っている人は、針がついている椅子に座っている人のいたさがわからない。体験的にまったくわかってない。体験がないから、針がついている椅子に座っている人のいたさが、まったく、わからない。
「俺だって、お尻がいたいときがある」と言う。長い時間、座っていると、どれだけふかふかなクッションがついている椅子でも、たしかに、いたいと感じるときがある。
しかし、そのいたさは、針がついている椅子に座っている人のいたさではない。
どれだけふかふかなクッションがついている椅子に座っている人だって、「つかれ」は感じる。しかし、その「つかれ」は、座面に注射器のような穴があいた針が突き出ている椅子に座っている人が感じる「つかれ」ではない。血がぬけていくのだから、チカラがはいらなくなることだってあるだろう。意識がもうろうとするときもあるだろう。
時間がたてば、抜けた血の総量が増えるのだか、過去のことは関係がないとは言えない。しかし、アドラー主義者は、現在のことだけを考えて、過去は関係がないと言うのだ。これは、おかしい。時間の経過とともに、血がぬけていくわけだから、時間の経過は関係がある。現在の状態に、過去は関係する。
アドラー主義者にとって、「他人」とは、自分とおなじように、ふかふかな椅子に座っている「他人」でしかない。針がついている椅子に座っている「他人」は、攻撃すべき「なにかそれ」でしかない。針がついている椅子に座っている人間は、同情するべき対象でなくて、攻撃するべき対象なのだ。
どうしてかと言うと、針がついている椅子に座っている人間は、「いたい」と不満を言うからである。アドラー主義者にとって、不満を言う人間は、不快な存在なのだ。親切にするべき対象ではなく、ディスりまくっていじめる対象なのだ。
「不幸なのは、おまえの性格が悪いから、不幸なのだ」と攻撃をしたい気持ちになる。
しかし、ほんとうは、生まれたときにランダムに振り分けられただけなので、アドラー主義者だって、針の刺さっている椅子に座れば、「いたい」と不満をもらす。アドラー主義者は、他人に冷淡で、親切にする気持ちがないので、針がついた椅子に座っている人間は、「いつも不満を言っている」とけなす。
「いつも不満を言っているから、不幸な人間だ」「不幸な人間は、いつも不満を言う」と相手の状態を考えずに発言をする。
アドラー主義者は、他人と自分の立場をいれかえて考えるということができない人間なのである。
では、アドラー主義者にとって「他人」とはなんなのかと言うと、アドラー主義者にとって他人とは、家族や「身近な人間」でしかない。
これは、ふかふかな椅子に座っている人間が、ふかふかな椅子に座っている横の人間には親切にしてやるのだけど、針がついた椅子に座っている人間には、親切にせず、ディスりまくって、責任追及をするということとおなじだ。
この責任追及というのは、針がついた椅子に座っていること自体について、責任を追及する。その人があたかも、悪人だから、針がついた椅子に座っているというようなことを言う。
これは、生まれたときにランダムに振り分けられただけだから、責任はない。
針がついた椅子に座っているから、不幸なのに、不幸だから針がついた椅子に座っていると言っているのとおなじだ。
針がついた椅子に座っているから、不満を言うのに、不満を言うから、針がついた椅子に座っていると言っているのとおなじだ。前世やカルマということばは出てこないけど、状態からしょうじる必然的な感情を、性格と言いかえることで、カルマを信じている人とおなじように、不幸な人は、不幸な人が悪人だから不幸なのだということを言っているということになる。
しかし、アドラー主義者だって、針がついた椅子に座れば「いたい」と不満を言うようになる。ずっと刺さっていれば、「いたい」といつも不満を言うようになる。
ところが、本人は、今現在ふかふかな椅子に座っているので、他人のいたみがわからないのである。
他人のいたみは、頑固に無視して、「同じ状態なのに」あの人は「いたい」「いたい」と不満を言っていると解釈してしまうのである。
そりゃ、長く椅子に座っていれば、お尻がいたくなるときがあるだろう。そういう「いたみ」と、針がついているいすに座っている人の「いたみ」が同じだと考えてしまうのだ。
アドラー主義者にとっては、ふかふかな椅子に座っているときの「いたみ」が人生のなかで感じられる唯一のいたみなので、それが「いたみ」そのものだと思ってしまうのである。
他人の立場や状態について考えることができないアドラー主義者は、たいしたいたみじゃないのに、針がついている椅子に座っている人がおおげさに「いたい」と言っていると思ってしまう。
アドラー主義者は、そういう、尊大で幼稚なところがあるのだ。アドラー主義者は、自己中心的で、他人の状態について、立場をいれかえて考えることができない人間なのだ。
アドラー主義者は「生まれの格差」を認めない。認めないところで、「生まれの格差・下」の人を、ディスりまくる。ほんとうは、その人の責任ではないのに、責任追及をする。これは、攻撃なのである。
アドラー主義者は、生まれつき不幸な人を、せめている。生まれの格差がないにもかかわらず、あるいは、そんなものがかりにあったしても、まったく現在の状態には影響をあたえないにもかかわらず、生まれつき不幸な人が、不幸なことをぐちぐち言っているから、不幸なのだと感じかえてしまうのだ。生まれながらの差を認めず、その人の状態……不幸な状態は、その人の性格がもたらしたものだと決めつけてしまう。そういう意味で、アドラー主義者は、愛がない人間なのだ。
アドラー主義者は「しあわせな人は他人のしあわせを願う」などと言っているけど、アドラー主義者が実際にやっていることは、他人のしあわせを願うような行為ではない。他人をディスりまくって、よろこぶような人間だ。
不幸せなやつがいたら、不幸せなのは、そいつの責任だと、そいつに強く言ってあたる人間なのである。それなのに、本人がどう感じるかは関係がないと思っている。こんなやつらが、他人のしあわせを願えるわけがないだろ。
じつは「他人」ということばに関する「トリック」がある。今回もちょっとだけふれたけど、これは、重要な問題なのである。この重要性も、九九%の人は理解しないと思う。「他人」という同じ言葉を使っているのに、「他人」の範囲がちがうのである。自分の家族も他人であるわけだし、生まれつき不幸な人も他人だ。家族だけではなくて、親戚や同僚なども含めてもいい。こういう「身近な他人」に対する態度と、「身近な他人以外の他人」に対する態度がちがいすぎる。
「他人」という言葉の内容がいれかわっているのである。アドラー主義者が親切にする他人というのは、身近な他人でしかない。自分の子供は身近な他人のうちのひとりだ。子供を例にするとわかりやすいので、子どもを例にして話す。そして、アドラー主義者である医者について話すことにする。
アドラー主義者である医者は、自分の子供には、「カヌーで遊ぶときは、マスクをつけなくてもいいぞ」と言うのに、他人の子供には「マスクをつけるべきだ」と言うのである。
そして、他人の子供が、マスクをつけて持久走をしているときに、死んだとしても、なにも感じない。
そんなのは、運が悪かったからしかたがないと思うだけなのだ。医者という専門的な立場から、マスクをつけることの必要性を主張すれば、権威に弱い校長が「子供に家でもマスクをさせよう」と考えてしまう。子供が家でもマスクをしていれば、その分だけ、発達が遅れる。
しかし、自分の子供以外の子供がどういうことになっても、そんなことは、一切合切気にしない。
子供と言っても、子供の範囲がちがう。自分の子供なのか、他人の子供なのかで、考えることが一八〇度、ちがってしまうのである。そして、ただ単に不幸な子供というような言い方をする。不幸な子供は、不幸だからダメなのだということを言う。
不幸な子供は嫉妬深い子供だから、不幸なのだ。不幸な子供は、泣き言ばかりを言っている子供だから不幸なのだ。不幸な子供は、不満をも言う子供だから不幸なのだ。不満を言う子供は不幸な子供だ。……こんなことばかりを言う。
どれだけ親が虐待したって、それは、親の問題であって自分の問題ではない。こういう考えをしっかりもてば、虐待の影響をうけない……こんなことばかり言う。自分が恵まれた子供時代をすごしたので、きちがい的な親に虐待されている「子供の現実」がまったくわからないのだ。めぐまれていたからわからない。それだけだ。