いい他人が、いやな他人にかわる瞬間がある。まあ、たいていの場合、しつこい繰り返しでそうなるわけで、一回や二回ではそうならない。けど、そうなってしまったら、これも、修復はむりだ。
きちがいヘビメタ騒音という宿痾をかかえていると、そうなる可能性が高い。どのみち、ヘビメタ騒音は、ほかの人には理解されない。理解しない人が、理解しない人のレベルで、俺の生活についてとやかく言ってくると、それで、おしまいということになる。
なんと、あったばかりの人にも、無職だと言うと、説教をされることがある。その人が、かりに、ほかのところで、いい人であったとしても、その人とつきあうつもりなどは、ない。なくなる。そりゃ、そうだろう。そして、つきあうとすると、いやなことがつみかさなるのである。
地合いが黒なので、頭がおかしい人は……じゃなくて、普通の人は、無職(当時)に対する偏見がある。そして、ヘビメタ騒音問題というのは、ほかの人にはないレアな問題なので、ほかの人は、考えちがいをする傾向が高い。
佐藤のように、ぼくが働けないと言っているのに、働かないだけだと解釈してしまうのである。これも、どれだけコミュニケーション能力が高いぼくが、ていねいに相手のレベルまでさがって、わかりやすく、何度も説明してあげても、理解できない。相手は理解できない。きちがい家族によるヘビメタ騒音というのは、普通の家で育った人には理解できないことだ。これ、ほんとうにちがうのである。
そういう人はまず、きちがい兄貴の性格について誤解する。そのあと、ぼくの性格について誤解する。そして、ぼくがなしたことについて、誤解する。
そして、ヘビメタ騒音の影響について誤解する。とくに、ヘビメタ騒音の影響に関しては、頭がわるいので、無視する傾向が高い。そのひとにどれだけ、ヘビメタ騒音のなかで感じたことを話してもむだだ。からだがどういう反応をするか、からだにどういう変化があらわれるということを話してもむだだ。むだなんだ。
これは、ぼくの話力の問題じゃなくて、相手の理解力の問題だ。ヘビメタ騒音の影響は、でかい。無視できるものではない。しかし、相手は、ヘビメタ騒音の影響は、ないと考えてしまうのだ。ないわけないでしょ。それがわからない、きちがい的な相手だ。そんなきちがい的な相手と、つきあうつもりはない。
いや、きちがい的な相手ではなくて、常識的な相手だった。
常識的な人は、きちがい家族について、誤解をする。わかってない。常識的な人は、そういうきちがい家族にやられたことがないので……やられ続けたことがないので、騒音に関しても、きちがい家族にやられ続けたという経験がない。そうなると、自分の騒音経験をもとにして、騒音というものを考えてしまうのである。あるいは、ぼくがかかえているヘビメタ騒音というものを、その似姿で、考えてしまう。
しかし、それは、まったくちがうものだ。兄によるきちがいヘビメタ騒音は、そういう常識的な人たちの創造の範囲を超える。こんなのは、3か月、がまんできればいいほうで、14年間なんて、期間が長すぎる。まるまる荘に退避できなかった期間が10年間あるのだけど、10年間ですら期間が長すぎる。
そうなると、10年間という期間の長さが与える影響……というのが、常識的な人には、わからない。経験がないからわからない。こっちのからだは、今現在もヘビメタ騒音の影響をうけているのだけど、常識的な人は、鳴り終わったら関係がないと考えてしまう。常識的な人は、鳴り終わったら影響はなくなると考えてしまう。
ヘビメタ騒音そのものと、ヘビメタ騒音の影響は、それぞれ、わけて考えなければならないことだ。みんな、常識的な人は、ヘビメタ騒音の影響について、勘違いをする。それは、経験してないのだから仕方がない部分もあるけど、ほんとうに、勘違いをする。みあやまる。軽視する。無視する。
無視したということも、無視する。軽視したということも無視する。みあやまったということも、無視する。勘違いしたということも無視する。無視したまま、本人がおもむくままに、本人の思考を続ける。そうなると、その人は、自動的にぼくを侮辱することになる。なので、ぼくは不愉快さを感じる。これは、あたりまえのことだ。