でかい毛布の洗濯をはじめた。これは、対ダニ用でバスタブを使って洗うというものだ。だいたい60度のお湯につける。高温には耐えられないのでダニは全滅。
ただ、つけておくわけだから、60度から温度がさがっていく。まあ、ほんとうに60度あるなら、即死レベルなんだけどね。
あとは、普通に洗濯をしはじめた。これは、普通の洗濯機で洗濯するというものだ。
けど、こういうことをやっても、部屋がぜんぜん片づかない。まあ、でかい毛布は、この処理をしないと片づけることができないのでそうしているのだけど……。
あとは、中古マンションを買うかUR賃貸にするか、まよっている。ともかく、動きがとれない。あとは、ほんとうに、不愉快なことを思い出す。相手がこっちに不愉快な思いをさせた場合と、こっちが相手に不愉快な思いをさせてしまった場合と、相手がこっちに不愉快な思いをさせて、なおかつ、こっちも相手に不愉快な思いをさせた場合の三通りがある。
きちがい親父にきちがい的な理由で怒り狂われていたということが、これもにも影響をあたえている。けど、そういうふうに言うと、「親のせいにしている」と言われやすいので、言いにくい思いがある。けど、ものすごく細かいことや、理由にならないことで怒り狂われたことがある人しか、この感覚はわからないと思う。一回や二回の話じゃないのだ。それは、きちがい親父の頭の構造が影響しているからだ。健常者と異常者の区別をするのであれば、とうぜん、この区別は重要だ。けど、「親」という単語にとらわれると、「俺だって、細かいことで怒られたことがある」というようなことを健常者が親である人間が言い出す……。これも、ヘビメタ騒音とおなじなんだよな。構造的に頭がおかしい人が、構造的に頭がおかしいから、普通の範囲で言えば「わけのわからなこいとで」怒り狂うということになる。あと、きちがい親父が無視しているのは、自分の感情とその発露なのである。きちがい的なことで、発狂して怒っているのに、「起こったつもりがないまま」なのである。あとは、おこったつもりがないということとは、矛盾するのだけど、「自分がちゃんとした理由で怒っている」ということなのである。こういうところで、きちがいなんだよ。普通の人は、ものすごい勢いで怒り狂ったなら、「ものすごく腹がたった」「その怒りを相手にぶつけた」とい記憶が残るのだけど、親父の場合は、そういう記憶が残らない。だから、「そんなことはやってない」という気分のままでいられる。これは、兄貴のヘビメタ騒音でもそうだ。ものすごい意地で鳴らしていたのに、「ものすごい意地で鳴らしていた」「ぜったいにゆずってやらなかった」という記憶がない状態で暮らしているのだ。発狂的な意地でやること……猛烈な勢いでやることなのに、「やった」という記憶がぬけている。これは、一般的な、記憶喪失とはちがうんだよ。やっている最中もやったつもりがないわけだから……。発狂してやりきるけど、「やったつもりがない」状態が続く。「やめろ」と言われたら、発狂してはねのけるのだけど、「はねのけた」という記憶がない状態だ。それは、一度認識したものを、忘れたということではないのだ。だから、普通の記憶喪失とは性格がちがう。こういうことを言うと、矛盾していると言われるかもしれないけど、ほんとうは、記憶が一部残っている。認知が一部、成立している。けど、自我にとって不都合な記憶は、普通に無視してしまうのである。この無視は、あったってないというような無視だ。けど、それも、いとき手にやっていることではないのである。だから、否定派するけど、「やった」というような感触はあるはずなのだ。けど、それも、怒りとともにおしながしてしまう。ほかの人の場合、こういう家族がいないのだから……こういうことがしょうじないのである。かりに生じたとしても、すでに自我ができあがったあと、頭がおかしい上司にこういうことをやられたということになる。その場合は、上司なのだから、会社をかえれば、とりあえずの問題は解決する。けど、家族の場合は、そうじゃないのである。そうは、いかない。そして、独立するまでの期間が長すぎるのである。この期間の長さを無視することはできない。けど、普通の人や認知療法家は、この期間の長さを無視する。