そもそも、配られたカードがちがうんだよね。それは、たとえば、幸福論にも影響をあたえる。これは、そのうち、くわしく書こうと思う。言いたいことは、人間を主語にして、おカネと幸福感の関係について語るのは、まちがいなのではないかということだ。人間ではなくて、こういうカードを配られた人間にとってはというような、但し書きをつけるべきなのではないかということだ。なんていうのかな、たとえばの話だけど、きちがい親父がきちがい親父ではなくて、なおかつ、きちがい兄貴をしずかにさせるつもりがない場合は、俺がアパートをかりて、その時間だけ外に出るということだってできた。きちがい兄貴が鳴らしているあいだは、その近くのアパートで勉強をするこということだってできた。けど、きちがい親父が訊かちがい親父なので、そういうことには一切合切賛成しなかった。子どもだった俺は、きちがい親父がカネを出してくれなければ、近くのアパートを借りるなんてことはできなかった。だから、鳴らされているあいだじゅう、ずっと、この部屋でくるしんでいた。きちがい兄貴を殺さないと、音をとめることができない。きちがいだから、どれだけ言ってもわからないんだよ。その「わからなさ」というのは、普通の人の理解をこえている「わからなさ」だ。きちがい兄貴本人だって、きちがいおやじとおなじ無視のしかたで無視をしているとは思ってないのだ。逆に、無視したつもりがない状態で、「どれだけ言われても」鳴らしている。鳴らし続けることができる。頭がおかしいからそういう態度で、そういう認知・認識で鳴らし続けることができるんだぞ。本人は「やったつもり」なんてまったくないよ。そういう状態で、十数年間がすぎていく。どんだけ、くるしいか?
いまだって……こうしているいまだって……鳴っている雰囲気があるよ。せっぱつまった、思い通りにならない空間がある。頭の横にある。ほんとうに、どれだけ、ひきさかれる思いをしたか?
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