たとえば、ある毒リンゴを食べてしまうと、からだじゅうの毛細血管がつまるということが発生してしまう。毛細血管がつまっても、……つまり、毛細血管に血栓ができても……普通の検査では、発見できない。毛細血管がつまれば、なんとなく体の調子が悪いというようなことが発生するとする。まあ、慢性疲労症候群のような状態になる。しかし、通常の検査では、異常がないので、「気のせい」にされる。
さて、AさんとBさんがつきあっているとする。Aさんが毒リンゴを食べて、からだの調子が悪くなったとする。Aさんは、そのリンゴが毒リンゴだったのではないかと思っているとする。Bさんは、そのリンゴが毒リンゴではないと思っているとする。そして、Bさんは、検査をすれば悪いところがわかるはずだから、検査をして異常がないということは、Aさんは正常だと思っているとする。その場合、Bさんが、他人をせめやすい考えをもっている場合、Aさんに対して「Aさんは、病気に逃げ込んでいる」というようなことを言うことになる。「つらい社会生活がいやなので、慢性疲労症候群だと言って、つらい社会生活をさけようとしているんだ」というようなことを言うのである。けど、実際に、Aさんのからだは、毒におかされていて、毛細血管がつまっている。だから、Aさんは別に、つらい社会生活がいやだから、病気に逃げ込もうとしているわけではない。しかし、Bさんは、Aさんのつらい状態を無視して、そういうことを言うのである。この場合、Aさんは実際にからだがつらいわけだから、Bさんの発言に対して、怒りを感じる。これは、不自然な怒りではない。おこる必要がないのに、おこっているというわけではない。しかし、Bさんは、自分が言ったことが「ずぼし」なので、Aさんがおこったと感じるのだ。ともかく、Bさんにとっては、Aさんは「つらいことがある」ので、病気に逃げている人間なのである。だから、それを言ってもいいわけだ。しかし、それは、Bさんの体調を無視している。実際の体調を無視している。無視できるのは、AさんとBさんが別の個体だからだ。そして、Bさんの「きょうかんりょく」がとてつもなく、ちいさいからだ。Aさんは、Bさんのつらさというのを無視できるのである。別の個体だから……。Aさんだって、Bさんが食べた毒リンゴを食べたら、動けなくなるかもしれないのだ。毒の量が同じなら、そして、人間としての科学的な組成が同じなら、Aさんも動けなくなる可能性はとてつもなく高い。しかし、Aさんには実際に、そういうことがしょうじてない。しょうじてないからこそ、言えることなのだ。けど、相手の立場に立って考えるということを無視してしまっているAさんにはそういうことは、わからない。普通の検査ではひっかからないことで、ぐあいが悪くなっている人たちがいる。けど、Aさんは、普通の検査をすれば、悪いところが見つかるはずだと思い込んでいるのである。これは、科学的な態度ではない。しかし、Aさんは、これが科学的な態度だと思っているのである。