「引きこもりなら、コミュ障だ」ということについて考えてみよう。じつは、引きこもりなら、コミュ障だとは言えない。
だいたい、引きこもりの中核は、長年、社会生活をしてきた人なのである。その、長年社会生活をしてきた人が、仕事をやめて、家族以外の人とあわないと、引きこもりと呼ばれる存在になる。「引きこもりなら、コミュ障だ」という命題は完全にまちがっている。この命題は『偽』なのである。
なぜら、引きこもりのなかにもコミュ障ではないものがいるからだ。さらに言ってしまえば、「コミュ障なら引きこもりだ」という命題もまちがっている。コミュ障であるにもかかわらず、引きこもりではないものもいるからだ。
これ、「コミュ障なら引きこもりだ」とか「引きこもりならコミュ障」とごく自然に考えてしまう人いる。こういう人たちは物事をよく考えることができない人たちなのだ。こういう人たちは偏見で目が曇っているので、それ以上、物事を深く考えることができないのだ。
「引きこもり」というのは、「態」でしかない。まあ、ほんとうは、「態」ということばを使いたいけど、「状態」と言っておこう。
引きこもりというのは、「状態」でしかない。能力に関しては、なにも言ってないのである。けど、「引きこもりはコミュニケーション能力に問題がある」と考えてしまう偏見の持ち主がいる。
まあ、その人だって、長年、きちがいヘビメタ騒音にさらされて、働けなくなれば、普通に、「引きこもり」と呼ばれる存在になる。
何度も言うけど、引きこもりというのは、状態をあらわしている言葉であって、能力をあらわしている言葉ではない。引きこもりなら、一〇〇%、コミュニケーション能力に問題があるというわけではないのだ。「状態」についてだけ、言及しているからだ。
「傾向」なら、あるかもしれないけど、傾向というのは、ある人とない人がいるときに成り立つ言葉なのである。ようするに、傾向があるということは、そうではない人がいるということを暗示しているのである。
たとえば、「引きこもりのなかには、コミュニケーション能力がたりない人たちがいる」ということを言ったとしよう。この場合は、引きこもりのなかには、コミュニケーション能力がたりている人とコミュニケーション能力がたりてない人がいるということを意味してるのである。
なので、「引きこもりのなかには能力がたりている人がいる」ということ「コミュニケーション能力がたりている人よりも、コミュニケーション能力がたりてない人のほうが人数が多い」ということを言っているのである。
ようするに、コミュニケーション能力がある引きこもりがいるということを言っているのである。引きこもりならば、コミュニケーション能力がないということを言っているわけではないということに注目するべきだ。
さらに「引きこもりならば、コミュニケーション能力がない」という命題について考えてみよう。これは、いままで見てきたように、『偽』だ。あやまりだ。「ない」ではなくて「たりない」でもおなじだ。「引きこもりならば、コミュニケーション能力がたりない」も、『偽』だ。
コミュニケーション能力がある引きこもりだっているのである。逆に、イメージとはちがって、「能力」そのものは、社会生活が破綻するまでは、じゅうぶんにあったと考えるほうが正常なのである。
「引きこもりなら、コミュ障だ」というような偏見には問題がある。なぜなら、これは、まちがった考え方だからだ。そして、まちがっているということに、この偏見の持ち主は気がつかない。こういうこと自体が、まともな人間にとって、住みにくい世界を作り出している。こんな、おろかな人間とつきあうのはいやだから、自分はひとりで暮らそうかなと思っても不思議ではない。
よもやま話として、十分条件と必要条件についてちょっとだけ語っておく。「引きこもりならば、コミュ障だ」という命題は偽だ。だから、十分条件とか必要条件ということについて考える必要がない。「引きこもりならば、コミュ障だ」という命題が真であった場合。引きこもりは、十分条件になり、コミュ障は必要条件になる。
これ、十分条件のほうが、集合的に範囲が狭いのである。包括関係を考えると、コミュ障のほうが、範囲がでかいということだ。まあ、これは、命題が真であった場合の話で、この命題は偽なので、そんなことは、考える必要がないのだけど、十分条件と必要条件についてはまちがいやすいので、説明しておいた。
「十分条件」のほうが、範囲がせまいということは覚えておいて、損はない。
日本語で「十分」と「必要」をくらべた場合、「必要」のほうが範囲が狭いような印象を与えるのだ。だから、「十分条件」とか「必要条件」とかということについて、誤解がしょうじる。この投稿を読んだ人は、もう、まちがわない。
++++++ちなみに
私はここで「引きこもりなら、コミュ障だ」という命題は『偽』だということについて述べた。これは、「コミュ障である引きこもりがいない」とか「引きこもりなかにはコミュ障はいない」とかということではない。しかし、そういう誤解をしてしまう人が、いるのではないかと思う。そういう誤解をしてしまう人は、私がここで説明したことをよく考えたほうがいい。
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