条件を考えないで、「人間はこうだ」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言うから問題がしょうじる。『相手の問題』というものを、無視したり軽視したりしてはいけない。
けど、「人間はこうだ」と人間に言う場合は、相手の条件を無視していることが多い。きちがい親父というハンディは、父親がきちがい親父ではなかった人には、まったくわからない。
想像することもできない。想像することもできないのだから、理解することはできない。相手が言うことを聞いて、想像する場合、父親がきちがい親父ではなかった人は、まちがった想像をしてしまうのである。
そして、理解したつもりになって、ああだこうだと言う。それは、はげましているつもりで言うわけだけど、条件を無視しているので、言われた相手は、不愉快な気持になる。きちがい親父にたたられなかった人は、きちがい親父がどういう行動をするのか、どういう感覚の持ち主なのか、ほんとうは知らない。
ただ、きちがい親父にたたられた人が、言う、説明を、言語として、自分の経験をとおして、理解するだけだ。この理解は、不十分な理解なのである。父親がきちがい親父ではなかった人が「自分だって親とこういうことでぶつかった」とか「自分だってこういうことがあった」とかということを言う場合、きちがい親父にたたられた人からすれば、まるで、自慢話をされているような気分になる。
だいたい、そういうことを言う時点で、きちがい親父がどういう存在であるか、わかってない。
経験をとおしてわかってない。
わかっていないというのは、そういう話をし出すということからわかる。ほんとうに、きちがい親父を体験している人は、そんなことは言わない。これは、きちがい兄貴のハンディを経験してない人が、「俺だって、朝はつらい」「誰だって朝はつらい」ということをはなしはじめる場合とおなじだ。
けっきょく、そういうことを言う人は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験してない。毎日、十数年間にわたって、経験してない。経験していたら、そんなことは、絶対に言えない。言わない。口が裂けても言わない。
通勤、通学ができる人が(現時点でやっている人が)……「俺だって、朝はつらい」という場合、やっているので、やれなくなるほどつらいことを経験してないということがわかる。
しょせんは、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを始める前の、ぼくの「朝はつらい」というレベルの話とおなじだ。これが、からだがまったくちがった状態になるのである。ヘビメタ騒音をやられた次の日の朝、というのは、つらいなんてものじゃないのである。
意志教の人は、「起きるという強い意志をもてば、起きられる」というようなことを言うけど、そういう強い意志を持って、毎日、起きつづけたからこそ、ついには、起きられなくなったのだ。
毎日、ずっとむりがつづけば、むりがができないからだになる。
ほんとうに、俺とおなじぶんだけ、毎日ヘビメタを聞かされたわけじゃないので、からだをとおして、動きずらい状態、くるしい状態というのを経験してないのである。自分がからだをとおして経験してないことについては、判断をあやまる傾向がつよい。