コーヒー、飲んじゃった。あーー。これで、理想の彼女と一緒に住んでいてもおなじだなぁ。けど、きのうは、さみしかったぜぇ。今日はなにもできないと思ったけど、ちょっとだけ、部屋を片づけるか?
もう、午後一二時五〇分。昼間の一二時五〇分。これねぇーー。
もう一杯、コーヒーを飲みたいけど、にがい、にがいお茶で我慢するかな?
ほんとう、つまらない。ほかの人は、脳みそのいろいろなところを破壊されてないからなぁ。まあ、比喩的な意味で、「お楽しみ回路」とか。「お楽しみ回路」は楽しみを感じることができる回路だ。物理的な部位が対応しているとは言わないけど、物理的な部位が対応してないとも言わない。
まあ、ひゆーーてきーーな、意味で、お楽しみ回路というもの考えた場合、ぼくはもうだめなのである。きちがいヘビメタの繰り返しで、お楽しみ回路が破壊されている。
それから、親父を殺したいと思ったときに、親父を殺さないで我慢したという経験がある。
じつは、こういうことも、お楽しみ回路に影響をあたえている。みんな、わかってないんだよな。
ほんとうになぐりたかったけど、我慢した……。こういうことが、「楽しみを感じる回路」に影響をあたえるとは思ってない。けど、じつは、こういうこと「も」影響をあたえる。だから、楽しみを感じるべきだと思って、「楽しくなれ」「楽しくなれ」と念じてもだめなのだ。「楽しくなる」と言えば、楽しくなるというのは、普通の人の話。
この人たちが、「俺だってつらかったことはある」と言っても、これは、質的にちがうつらさなのである。どうしてそういうことがわかるかというと、「楽しくなると言えば、楽しくなる」などと言っていられる状態を維持しているからだ。そういう状態を維持できるなら、それは、たいしてつらいことじゃない。何万時間も、きちがいヘビメタ騒音にさらされて……何回も何回も、絶対の意地でへんなことをするきちがい親父をなぐろうとしたことを我慢した……ということが、ないのである。どうしてかというと、その人は、きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがないからだ。これ、ぜんぜんちがう。普通の人とのあいだに起こったことと、家族とのあいだに起こったことはちがうのだ。そして、普通の人のもとにうまれてきたということは、普通の人が家族だったということだ。もう、そこで、ぜんぜんちがう。もう、そこが、ぜんぜんちがう。ちがうんだよ。
まあ、途中で普通の家族が、きちがい家族になるということも、ないわけじゃない。けど、それはまた、ちがうんだよ。ぼくが言っているのは、自分が生まれた時点で、すくなくても、親が気ちがいだった場合の話だ。
ともかく、「楽しくなると言えば、楽しくなる」ということを本気で言っているのであれば、……つまり、そういう「考え方」を信じているのであれば……お楽しみ回路は破壊されてない。
お楽しみ回路が破壊されてない人が言うことは、お楽しみ回路が破壊された人には、意味がないことだ。特に、お楽しみ回路が破壊されてない人が、お楽しみ回路が破壊されている人に対して、アドバイスをするのは、むだだ。むだなだけではなくて、有害。
お楽しみ回路が破壊されていない認知療法家、お楽しみ回路が破壊されていないアドラー主義者、お楽しみ回路が破壊されていない霊界信者、お楽しみ回路が破壊されていない言霊信者、お楽しみ回路が破壊されていないポジティブ思考信者、お楽しみ回路が破壊されていない意志教信者が言うことは、すべて、有害なのである。有害なアドバイス。
アドバイスをしたほうがいい気分になって、アドバイスをされたほうが不愉快な気分になるアドバイスにしかなりえないのだ。
お楽しみ回路が破壊された認知療法家なんて、いない。アドラー主義者、霊界信者、言霊信者、ポジティブ思考信者、意志教信者も、おなじ。お楽しみ回路が破壊されたアドラー主義者なんているわけがないだろ。以下、おなじ。
手短に言うと、きちがい親父に、何千回も、生まれてから11歳までやられても、「お楽しみ回路」維持できたのだ。けど、ヘビメタ騒音の数千日、数万時間のヘビメタ騒音で破壊された。ようするに、きちがい親父がやったことでは、ぼくのお楽しみ回路は破壊されなかったけど、兄貴のヘビメタ騒音で、ぼくのお楽しみ回路が破壊されたということだ。たぶんだけど、「俺だってつらいことがあった」「俺だって騒音ぐらい経験している」と言っている人のつらいことや、騒音というのは、お楽し回路を破壊するようなものではなかったということだ。そして、親父を殴りたい気持ちを我慢したということが、お楽しみ回路に影響をあたえるということを書いたけど、親父をなぐりたい気持ちを我慢したことによるお楽しみ回路の影響は、ようするに、ヘビメタ騒音を我慢したあとの話なのだ。どういうことかというと、親父をなぐりたい気持ちを我慢したことは、いまの時点で、お楽しみ回路をうしなったことに影響があるけど、それは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、人生のなかで発生したあとの話だということだ。つまり、兄貴のヘビメタ騒音+きちがい親父のきちがい行為なのだ。けど、兄貴のヘビメタ騒音と同じレベルの影響力をあたえるものを人生のなかで経験した人は、やはり、きちがい親父のきちがい行為だけでは、経験しない「お楽しみ回路の喪失」を経験することになるだろう。ともかく、あまりも特殊なので、普通の人が経験したことがないことなのだ。
今回の文章の前半部分と後半部分が矛盾しているように思えるかもしれないけど、矛盾はしてない。
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ぼくが前半部分で言いたかったことは、怒りが内攻することがあるということと、その「内攻した怒り」が「楽しむ能力」に影響をあたえることがあるということだ。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」とか「楽しむと決心すれば、楽しめるようになる」というようなことを言う場合、「楽しくなる」ということに、注意がむいている。あたりまえだが、そうだ。けど、『発狂的におこったけど、おこるのをがまんした』というような経験が、それ以降の「楽しい気持ち」に影響をあたえるのではないかということだ。ぼくは、あたえると思う。かなりでかい、影響をあたえると考えたほうが、現象を理解しやすい。それ以降と書いたけど、これは、「時間的にそれ以降」ということだ。
怒りが内攻する場合、やはり、人間は、楽しめなくなる。楽しもうという「意志」とは関係なく、楽しめなくなる。けど、「意志でどうにかする方法」をすすめられることになる。けど、重要なのは、怒りが内攻するような出来事を、人生のなかで、何万回も、何十万回も経験してしまったことだ。すでにあるそういう経験が、意志とは関係がない「自分の気持ち(全体)」に影響をあたえる。その場合、「意志とは関係がない」のだから「意志」ではどうにもならない。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という場合、楽しもうとする意志があり、楽しもうとする意志が、「自分」に「楽しむように」命令をすれば、楽しむことができるという前提がある。しかし、この前提がまちがっているのではないかということだ。こういう意味では、言霊主義者も、「意志教徒」なのだ。意志にかかわることを言えば、それが現実化すると考えているのであれば、「意志は絶対」なので、意志教徒になりえる。意志は絶対と書いたけど、それが意味するところは、「強い意志をもって、そうすれば、絶対にそうなる」ということだ。