「希望をもって暮らしましょう」ということを言っているのであれば、そういうふうに言えばいい。「言ったことが現実化する」と言う必要がない。前投稿で書いたように、言霊主義者も、言っただけでは現実がかわらない場合があるということを知っている。
ひとつでも、かわらない場合があるのであれば、「言ったことが現実化する」ということは成り立たない。
たとえば、ある人が「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」と言ったとしよう。その人が言ったことが現実化するということが、言霊の理論だ。一秒後にA国が、B国に向かって核弾頭ミサイルを発射しないのであれば、言霊の理論はまちがっていたということになる。
だから、言霊主義者は、時間を決めないで発言するのである。
「いつか、そうなる」……これなら「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する可能性」はあるわけだから、現在の時点では、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」ことがしょうじるのかどうか、わからない。言ったことが現実化するのか、現実化しないのか、その時点では、わからないことを言う。
あるいは、わからないように言う。
言霊主義者は、気にくわない現実は、無視している。時間を決めないのであれば、つねに可能性があるわけだから、「成り立つ可能性」を温存できる。
これは、言霊の理論が正しいという可能性を温存できるということだ。なので、言霊主義者は、意識しているかどうかにかかわらず、時間を制限するようなことについては語らない傾向が強い。
自分は、自分が思ったとおりに世界をかえることができると思っているのである。自分が思ったとおりに世界をかえる方法は、言うことなのである。
けど、自分の発言と、世界の動きは一致するのだろうか。自分の発言が原因で、「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」ことがあるのだろうか。自分の発言……ただ言うだけのことに……そんな力があると思っているのだろうか?
自分が言えば、A国の指導者が、急に、核弾頭ミサイルをB国に打ち込みたくなって、打ち込んでしまうのである。自分の考えが、A国の指導者の行動を、厳密に支配しているのである。完全にコントロールしているのである。そんなことがあるのだろうか?
ついでだから、言っておこう。たとえば、「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」と「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射しない」という文には、たいした違いがない。ちがいは「する」と「しない」だけだ。
この、二文字、三文字のちがいに、正反対のことを引き起こす、力(ちから)があるのだろうか。
たとえば「ヘビメタ騒音が鳴りやむ」と「ヘビメタ騒音が鳴りやまない」という文の場合、「む」「まない」のちがいしかない。この、一文字と三文字のちがいが、現実をかえる力をもっていると、言霊主義者は思っているのだろうか?
ほんとうに、思っているのだろうか?
「一秒後に」ということばを付け加えるともっと、この違いが鮮明になる。
「一秒後」というのは、言い始めて一秒後なのか、言い終わって一秒後なのか。もちろん、言い終わって一秒後なのだろう。けど、途中まではおなじ文の文字列を、発音しているのである。
たとえば、「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」という文と 「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射しない」という文のちがいは、「する」と「しない」のちがいだけなので、「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射」までは、おなじだ。
だから、ほんとうに「現実をかえる力」をもっているのは最後の二文字、三文字だということになる。本気で言っているのだろうか?
言霊主義者は、最後の二文字、三文字に現実をかえるだけの力(ちから)が「ほんとうにやどっている」と思っているのだろうか?
最後の二文字、三文字には、現実をかえるだけの力(ちから)がやどっていると、言霊主義者は思っている。
まあ、最後の二文字や三文字が、現実を正反対のものにかえてしまうというのは、日本語の特徴が影響している。言霊というのは、じつは、日本語だけではなくて、英語でも成り立つ。ほかの言語でも成り立つ。ほかの方言でも成り立つ。「言ったことが、すべて現実化する」のだから、そうなる。
けど、それは、おかしくないか?