もう、障害者差別なんてないよ。あるのは、ギリケン差別だ。基本的に言っていまの世の中だと、ギリケンのほうが差別されて、ギリケンのほうがつらい思いをすることになっている。で、そのギリケンをくるしめるものはなにかというと、じつは、普通の人がもっている労働観なのだ。
現代ということを考えるのであれば、問題なのは着色された障害者差別じゃない。問題なのは、無職差別だ。 現代ということを考えるのであれば、問題なのは着色された障害者差別じゃない。問題なのは、引きこもり差別だ。
だいたい、なんとか差別反対と言いやすいものと、言いにくいものがある。言いにくいもののほうが、もちろん、実際には差別されている。言いやすいものに関しては、もう、差別されてない。
「障害者差別反対」とは言いやすいけど、「引きこもり差別反対」とは言いにくいだろ。「無職差別反対」とは言いにくいだろ。「ギリケン差別反対」とは言いにくいだろ。ギリケンというのは、ぎりぎり健常者のことな。
「なんとか差別反対」と言いやすいもの……これに関してはもう、人権が確立されている。もちろん、個人のプロパーな問題はある。それは、じつは、特に「なんとか差別反対」と言わなくてもあるものなのだ。
そして、「なんとか差別反対」と言っても、個人的な問題が解決しない。言葉としての差別反対……。集団としての差別反対……。こういうことでは、じつは個人が個別にかかえている差別感にまとわる問題というのは、解決しない。
言いやすい差別反対を叫んでいる人のほうが目立つし、おカネになる。ほかの人の支持も得られやすい。ブラックなマスコミが応援するからだ。このブラックなマスコミは、どのみち、淘汰される。
いままで、人を洗脳してきたマスコミが、本当の意味で責任を追及されるようになる。けど、それは、これからはじまることだ。いままではもちろん、『黒い地合い』で好きなことをやってきたのである。これは、人類史的に見てゆるされることではない。
ともかく、言いやすい差別反対を叫んできた人は、自分の心のなかに、差別心が、めちゃくちゃにあることを認めるべきだ。簡単に言えば、障害者差別撤廃を叫んでいる人が、ギリケンに関してはめちゃくちゃに差別していて、労働観に基づいた偏見を押しつけるということになっている。
もちろん、押しつけているつもりなんてあるわけがない。正しいことを言っていると思っているからね。どしうて、正しいことを言っていると思えるかというと、そういう労働観をもっているからだ。労働観に照らし合わせて、ギリケンという存在は、ゆるしがたいのである。「そんなのことは理由にしないで、ちゃんと働くべきだ」と考えてしまうのである。 そんなことというのは、ギリケンであること、ね。
障害者が働かないのはゆるされることだけど、ギリケンが働かないのは、絶対にゆるされるべきではないと考えてしまうのだ。この基準が差別なのだ。ようするに、障害者差別に反対している人は、平気で、ギリケン差別、無職差別、引きこもり差別をする。悪いと思ってない。
「言いにくいほう」に分類される人たちのほうがずっと、差別されている。
言いやすいほうの人たちにはすでに人権があり、言いにくい人たちのほうにはまだ人権がない!!のである。なのであれば、もちろん、言いにくい人たちのほうの人権についてふれるべきだ。なぜわからないのか?
差別のまなこをむけられている人たちの人権に目を向けるべきだ。言いやすいほうの人権ばかり主張して、言いにくいほうの人権は完全に無視だ。
そして、活動している本人も、じつは、言いにくいほうに属する人たちに対して、俗世間的な差別心をもっている。「こういうことじゃだめだよな」と言ってやりたい。佐藤さん、おわかりか?