問題なのは、地合いが黒であって、なおかつ、生まれの格差があるにもかかわらず、地合いが黒であることや、生まれの格差があることは、無視されるということだ。無視されて、きれいごとが成り立っている。
たとえば、認知療法の理論、行動主義心理学の理論、ポジティブ思考の理論、言霊の理論、思いは現実化するという意味での成功法則、引き寄せの理論、すべては受け止め方の問題だとする霊界理論、たましいが自分の条件を選択したのだという霊界理論……こういうものが、すべて、地合いが黒であるという状態に奉仕し、生まれの格差を無視する。
地合いが黒だ……ということは、非常に重要なことだ。
地合いが黒であるということは、つねに悪魔のささやきがある状態なのである。「じぶん」がよければ、ほかのものは、自分の行為によってどうなってもかまわないというような自分勝手さが、奨励されている世界なのである。たいていのものは、自分がよくなりたいので、他人を犠牲にする。そういうことに、なれてしまう。
そして、そういうことになれてしまっているのにもかかわらず、じつは、きれいごとを言う。いまに、わかると思うけど、世界の指導者としてきれいごとを言ってきた人たちは、ほぼ全員、猛烈に悪いことをしている。たましいをけがすことをしている。まあ、それには触れないでおこう。
ともかく、地合いが黒である状態だと、人は、簡単に悪魔の誘惑に負ける。地合いが黒である状態だと、「じぶん」さえよければ、ほかのものはどれだけくるしい思いをしてもいいというような考えに陥りがちだ。勝ってしまえば、それでいいという考えに陥りがちだ。上位に立ってしまえば、それでいいという考えに陥りがちだ。そして、それを実行する。しかし、それは、悪いことなのである。
しかし、そういう状態でも、なおかつ、人は、きれいごとを言うことができる。きれいごとの活動に奉仕することができるのだ。なので、「うえ」の人がそういうことをしていると、「した」の人は簡単にだまされてしまう。
「うえ」の人が言っているきれいごとが正しいと思うようになってしまう。もちろん、実際は、きれいごとではなくて、悪が成り立っている。地合いが悪なのだから、悪が成り立っている。
けど、悪が成り立っているということについて、人々は無関心になる。今回の〇〇〇〇騒動でそういうことが、あきらかになった。
ともかく、このような世界では、他人を蹴落としたい、自分が優位な立場に立ちたいという、自分勝手な気持?が鼓舞されて、承認されるのである。実際にそういうことになれしたしんでいる人が、社会の上層部にたくさんいるということになる。
これからは、地合いが白になるので、他人に対する思いやりが、成り立つ社会になる。地合いが黒である社会でも「他人に対する思いやり」ということは、きれいごととして、よく言われることだ。〇〇〇〇でも、「思いやり〇〇」ということが言われた。
しかし、悪魔に奉仕する人たちが言う「思いやり」はじつは、不幸なことを引き起こしてしまう「思いやり」だ。そして、悪魔に奉仕する人たちは、それを知っている。知っていてやっている。
つまり、自分さえよければ、他人が死のうが、他人が不幸になろうがかまわないという考えに基づいて、〇〇〇〇〇〇をしたほうがいいということを言ってしまう。それが思いやりなのだということを言ってしまう。
これは、普通の人にとっては、まさに、悪魔のささやきだ。負けては、いけない。
けど、あたかも、〇〇〇〇を打つことが、思いやりのある行為に思えてしまうのである。ようするに、負ける。悪魔のささやきに負けてしまう。
この人たちは、他人を殺し、他人を不幸にするために思いやり〇〇をすすめている。そういうことに、気がつかなければならない。この〇〇〇〇〇〇のすすめこそが、悪魔に支配された「地合いが黒である社会」の特徴をあきらかにしている。他人を奴隷にしたり、他人を殺したり、他人を不幸にすることで、よろこびを感じるような人たちが、トップにいるような社会だ。
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