毒リンゴのことについては、むかし書いたことがあるのだけど、文章がどこかに行ってしまったんだよな。まあ、ぼろぼろだから、管理もできてないわけ。どうしてボロボロになったかというと、ヘビメタ騒音でぼろぼろになったんだよ。で、まあ、そういう前置きはいいとして、毒リンゴの話をしておこう。この毒リンゴの話は、「異世界」の話だ。この世界の話でないので、そう思って、聞いてくれ。
毒リンゴのことで言いたかったのは、神様的な視点で、ものごとを認知できる人間がこの世(異世界)にはいないということだ。みんな、人間の視点でものごとを認知している。どうしてなら、その世界(社会)を構成している生物が人間だからだ。(異世界の人間だとする)。
で、作者が神様的な視点で事実を決定したあと、その事実が揺らがないものとして、説明を始めるというのが普通のやり方だ。たとえば、「毒リンゴ」と書いたら、「毒リンゴ」であるわけ。
そのリンゴが、毒リンゴなのか、毒が入ってないリンゴなのかは、重要なことなんだよ。
で、Aさんと、Bちゃんと、Cさんがいるとする。Aさんは、毒リンゴを配っている人だ。無料で配っている。Bちゃんは、毒リンゴを受けとって、食べようとしている子供だ。
で、Cさんは、Aさんが配っているリンゴがじつは、毒リンゴだということを知っている人だ。そして、Cさんが、Aさんが配った毒リンゴを食べようとしているBちゃんを見かけたとする。
そのとき、Cさんは、「毒リンゴを食べちゃだめだ」と言って、Bちゃんの毒リンゴをはたいた。はたかれた毒リンゴは地面に落ちた。リンゴを食べようと思っていたBちゃんは、地面に落ちたリンゴを見て、泣き出してしまった。
この場合、そのリンゴが毒リンゴであるということを知っている読者は、Cさんがなんで、リンゴをはたいたのかわかる。Aさんが毒リンゴを配っている悪い人だというのがわかる。だから、読者にはこの話はうけいれられやすい。Cさんが真実を知っている人で、Aさんが毒リンゴを配っている人なのである。
けど、Aさんが配っている毒リンゴが、毒リンゴではなくて、普通のリンゴだという設定で、おなじ場面について作者が読者に説明をすると、Cさんは、普通のリンゴを毒リンゴだと思っているへんな人(頭がおかしい人)で、子供が食べようとしていた普通のリンゴをたたいて落とすということをした悪い人間だということになる。一方、Aさんは、普通のリンゴを無料で配っている善良な人だということになる。そういうふうに、見えるでしょ。読者はそう思う。
けど、そういうことは、普通は意識されない。心理学の本を読む場合、へんなことにこだわる人は、最初からへんなことにこだわる人として説明されている。これは、作中の登場人物に対して、読者が思うことだ。そして、作者は、神様的な視点で、「事実」を決定することができる。しかし、現実の世界・現実の社会では、じつは、神様的な視点をもっている人間は存在しない。なので、作者が設定するように、「事実」は決定されてない。おのおのの個人が、別々の視点から、「事実」を見て、決定するということになる。
繰り返して言うけど、現実の世界・現実の社会では、神様的な視点で、そのリンゴが、毒リンゴであるか、普通のリンゴであるか決定できる人はいない。この世の人間は、その人間の視点しか持ってない。その世界の人間は、神様的な視点をもてない。
あくまでも、その人間から見ると、毒リンゴに見えるということになのである。その社会に、そのリンゴが毒リンゴであると認識している人と、そのリンゴが普通のリンゴであると認識している人がいるということになる。神様的な視点で、真実がわかっている人間はいないのである。
なので、検査をすることになる。
けど、人間がおこなう検査は、人間がおこなう検査であって、神様のようには、事実を認識できない。検査機関が、毒リンゴを無毒なリンゴだと判定して、そのような情報を流した場合、普通の人は、それを信じる。検査機関が権威がある検査機関だと、その情報を信じる。
検査機関が、かそりめに、事実を決定するのである。けど、このかりそめの事実決定は、神様による事実決定ではない。検査機関がほんとうは、毒が入っているリンゴを毒が入ってない普通リンゴだと発表する可能性はある。人間がおこなうかりそめの事実決定と、神様による事実決定は、じつは、ちがう。
「ほんとうの真実」というものがあるなら、それは、神様が決定した真実だ。
人間が決定した真実は、「ほんとうの真実」のまがいものだ。
けど、権威がある機関がそういう判定をしたならそうなのだろうと、普通の人は考える。それにしたがう。こういうばあい、あるとき、権威のある機関がなんらかの理由でうその情報を流した場合、混乱がしょうじる。
普通の人は、うその情報を信じてしまうからだ。
まあ、架空のこととして、ほんとうの真実(神様が決める真実)と暫定的な真実(人間が決める真実)のあいだに、わずかなすきまのようなちがいがあるということは、理解しておいてほしいんだよな。それは、神経質なことなんだけど、ちがいがある。この世における真実というのは、暫定的な真実にすぎない。