ヘビメタ騒音期間中はだめなのだ。ヘビメタ騒音期間が約十五年間と長いので、そのあとも、ヘビメタ騒音期間中とおなじ状態ですごすことになる。これが、ほかの人にはわからないんだよな。鳴り終わったのであれば、鳴り終わったのだから、影響はないと考えてしまう。けど、十五年間も毎日、やられたことが影響をあたえないなんてことはない。している。ともかく、言霊を信じている人には、きちがい兄貴がいなかったし、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音という出来事もしょうじなかった。……なので、わかってない。なので、自分のからだをとおして、わかってない。自分の経験をとおして、わかってない。わかってないので、影響を無視する。無視したところで「元気だ元気だと言えば元気になる」ということを言う。無視するな・・という気持ちが……こっちにはしょうじる。いずれにせよ、つきあえない。相手がのぞんでいるかいとうは「元気だ元気だと言ったら元気になりましたよ」ということだ。あるいは、ぼくが、実際に元気になっているということだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」というすごいことを教えてあげたにもかがらず、元気じゃないというのは、言ってみればゆるしがたいことなのである。「なんで、おしえてあげたのにそうしないんだ」と思ったりする。言ったあと、ぼくが元気じゃないと、ぼくが元気じゃないということに不満を持ってしまうのだ。なので、対応としては、元気になってないけど、元気になったというようなふりをしなければならなくなってしまうのである。つきあうとするとそうなる……。けど、これは、よけいにつかれる。けど、言霊ではないけど、人間というのは、ある程度、ポジティブな状態を維持しているようしていなければならないのである。きちがいヘビメタが鳴ってない状態なら、そういうふりもできるけど、ヘビメタが毎日鳴っている状態だと、そういうふりをする期間にも上限ができてしまう。ヘビメタ騒音がはじまってからの期間と、ヘビメタ騒音がはじまるまえの期間をくらべると、普通の人の感覚というのは、ぼくにとってヘビメタ騒音がはじまるまえの期間の感覚に近い。だいたいおなじだ。ヘビメタ騒音がほんとうに毎日鳴ってからは、つかれ方がちがうのである。別次元のつかれ方なんだよ。きちがいが横の部屋で毎日同じ時間にずっとヘビメタを鳴らしているという状態になるまでは、なにか不愉快な出来事があっても、時間がたてば、それなりに復活できた。けど、それが、できくなるのが、ヘビメタ騒音なのである。で、これは、ほんとうに毎日やられるということが続かないとわからない……。経験的にわからない。言霊的な助言をする人は、わかってない人だ。
実際に鳴っていたということが重要なのに、鳴っている毎日を実際に経験した人と、鳴っている毎日を実際には経験しなかった人が、毎日、鳴っているとどういう効果がしょうじるかについて話をしているということになってしまう。鳴っている毎日を経験しなかった人が、その効果を推し量って、好き勝手なことを言うわけだ。推し量って言っているだけなのだけど、知らないという意味で、それは、確信なのだ。ようするに、『影響があるはずがない』という考え方が成り立っている。その影響というのはあったとしても、「元気だ元気だ」と言えば、完全に打ち消せるような『小さな影響』なのだ。鳴らされてない人にとっては、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音は、そういうことが起こらなかったのだから、「小さな影響だ」と断定できるものなのだ。何度も言うけど、これは、推測・推量なのだけど、その個人のなかでは、断定だ。そういうものでしかないものなのである。だから、そういうものでしかないものの、影響をうけているということが、「だらしがないこと」になってしまうのである。それは、どうしてかというと、影響をうけるはずがないものについて、影響をうけたと「ぐちぐち」「いつまでも」も言っているということになるからだ。その、経験のない個人のなかでは、こういう考えが否定できない。経験がないのだからしかたがないとは思うけど、そういう「かまえ」自体が、ぼくにとっては、不愉快なことだ。きちがい兄貴は、人をして、ぼくを、侮辱せしめる。きちがい兄貴のやったことというのが、普通の人の経験の範囲にないことなのだ。もちろん、「似たことだ」と経験がない人が判断するような経験はある。けど、似てない。その人には、きちがい兄貴がいなかったのだから、似てない。普通の人は、きちがい兄貴の構造について、普通に誤解をして、自分の経験のなかで判断をしてしまう。そして、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、ぼくの社会的な地位、あるいは、学校での地位が低いものにならざるをえないので、ほかの人たち……きちがい家族がいない人たち……きちがい家族による、毎日続く、普通の家では絶対にありえない騒音というものを、経験したことがないほかの人たち……は、ぼくを、ぼくをしやすくなるのである。ぼくを侮辱しやすい地位を得ていると言ってもいい。それは、たとえば、働いているなら、(ヘビメタ騒音で働けなくなった俺)を侮辱しやすい地位にいるということになる。佐藤が、そういうことをしたわけだ。実際には、佐藤は、俺にあった当時、無職だったんだけどね。どうして、そういうことがしょうじるかというと、ヘビメタにやられているからなのだ。このヘビメタ騒音というのが、ほかの人にとって理解しがたいものなのである。普通の人は普通の家族を想定してものを言うから、いくらやりたくても、さんざんもめれば、やめてくれると思っているのだ。さんざん言って、喧嘩して喧嘩して、自己主張すればやめてくれると思っている。そういう、残念な家族がいたとしても、ほかの家族が、自分に賛成して、けっきょくは、やめせてくれると思っているのだ。そんなんじゃないからこまっている。普通の人たちは、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父に関しても、誤解する。ごく自然に誤解する。しかも、誤解に気がついていない。うちのきちがい親父みたいな人にやられている家族は、ほかの人から、誤解される。ほかの人のうちには、うちのきちがい親父みたいな親父がいないので、想像することができないのである。話として聞いたとしても、「それは、まるまるだからでしょ」と言って別の理由を考え出してしまうのである。きちがい親父にとって、相手が「よそ」のひとか「うち」の人かということは重要なことだ。それですべてがちがってしまう。うちの人にやることは、よその人にやらないのである。これは、兄貴もおなじだ。よその人に、「うるさかいらやめてくれ」と言われたら、やめる人間なのである。けど、うちでは絶対にやめないし、絶対にやめてやらなかったということも、認識しない人間なのである。親父の話と兄貴の話がごっちゃになっているような印象をうける人もいるかもしれないけど、親父と兄貴の「脳みその構造」がおなじなので、別に、ごっちゃにしているわけではない。ちがうなら、言い分けなければならないけど、おなじなのだか、言い分ける必要がない。親父が主語になっているところは、兄貴を主語にしても成り立つし、兄貴が主語になっているところは親父を主語にしても成り立つ。ともかく、両方ともが、「普通の人」にとって理解しがたい存在なのである。なので、普通の人は、誤解をしてしまう。しかも、ほかの人にとって、うちの親父やうちの兄貴のことは、どうでもいいことなので、特に、修正しようとは思わない。自分のなかにある「考え」を修正してまで、俺の話につきあう必要はないと考えているのだ。だから、普通の人は、佐藤が誤解したように、誤解する。
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ヘビメタでどうしてもつらい。くるしい。まるまるたい。