「いまの環境は、生まれてくるときにあなたが選んだ」系の考え方というのがあるんだよね。けど、その考え方を前提にしてものを言うと、他人を傷つけることがある。
けど、そういうことを言う人たちは、そんなことは、知ったことじゃないのである。どうしてなら、自分がそういうふうなことを言うことも、相手がそういうことを聞いて、なにを思うかも、うまれるまからみんな決まっていたことだから……。
そいつらは、そう考えるのである。傲慢。神様だと思っている。この世のしくみを知っていると思っている。この世どころか、あの世のしくみを知っていると思っている。自分の人生についてそう考えるのは、自由だけど、人の人生について、そう考えて、妄想に基づいた発言をするのは、人に対する侮辱なのだということに、いいかげん、気がつけ。
こいつらは、そういう「わかったようなこと」を言うけど、ほんとうは、ありふれた感情に振り回されて生きている。こいつら考え方は、「起こってしまったら」「それは、決まっていたことだ」という考え方なのである。
実際にそうなったら、それは、生まれるまえから決まっていたことだという考え方なのである。
たとえば、Aさんが、Bさんをいじめて殺したとする。それは、うまれるまえから、決まっていたことなのである。Bさんは、Aさんに、ある時点でいじめられて殺されることを承諾してうまれてきたと考えてしまう。
だから、Aさんは「わるいことをした」わけではないということになる。「わるい」とか「よい」とかということは、決まってないということを言うのである。
けど、自分がなぐられたら、自分がなぐられるということが決まっていたというふうには、考えない。普通におこって、なぐりかえそうとする。医療ミスで、本人が今後の人生に影響をあたえる生涯を背負ってまったら、それは、生まれるまえから決まっていたとは考えずに、あんがい普通に、うらんだり、後悔したりするのである。
実際に、くるしければ、くるしいという反応をしめす。
「医療ミスで、くるしくなるということは、うまれるまえから決まっていた」とすずしい顔をして言うわけではない。ただ単に、ちょっとくるしいだけではなくて、手足を切るような羽目になったら、やはり、動けずに不愉快な気持になるのである。うまれるまえから、決まっていたことだから、不愉快さは感じないということではない。
けど、まあ、死ぬまでそう考えていればいいさ。
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この手の考え方というのは、理由を求めて、理由がない場合にたどりつく考え方なのである。なので、ほんとうは、くるしいのである。
ようするに、理不尽には耐えられないので、「霊界で、選んだ」とか「うまれてくるときに、神様とそういう約束をして、承諾してうまれてきたから、そういうことが、この世で発生した」と考えるのだ。そう考えると、理不尽なことが理不尽ではなくなる。理不尽なことではなくて、自分が選んだからそうなるという理屈がつく。
じゃ、なんで、「霊界」とか「うまれてくるまえの選択」というような「フィクション」をつくったかというと、この世が理不尽だからなのである。この世が理不尽であるという認知のほうが、さきに成り立っている。
本人は、そういう認知についてとくに、自覚はしてないのだけど、そういう認知が成り立っているから、「霊界」「うまれかわり」「たましい」「たましいの選択」というフィクションが必要になる。これは、「妄想」と言い換えてもいい。
そういう妄想にもとづいて、他人の人生をきめつけるのはよくないよ。
この妄想は、明示されるときと、明示されないときがある。明示されないときは、前提として成り立っているだけで、発言のなかには出てこない。
けど、そういう前提が成り立っている発言というのは、人を傷つけるのである。
こんな傲慢なことはない。傲慢だよ。神様になったつもりか。宇宙のしくみを知ったつもりか。まあ、そういうつもりになって、傲慢なことを他人に言うのも、決まっていたことなのだろう……。そういうことを言う人のなかではね。自分の人生だけ決めつけていればいいのに、どうして、他人の人生まで決めつけるのか。
これ、精神世界系だと、「程度が高い話」として語られるのである。こういうのを信じて、自分も他人の人生を決めつけてやろうと思う人が、続出してしまう。めいわく。
こんなことが、「いい話」として語られるのだから、地球人の精神性も、地に落ちたものさ。これ、自分がどういうことをしているのか、気がついてないんだよな。
むしろ、……精神世界系の言葉を使うのであれば……そうすることによって自分のたましいをけがしている。カルマはないけど、よくない行為だ。この世において「わるい」と「よい」はある。