いままで、引きこもりや無職のために、がんばって、たたかってきたけど、もう、いいかなという感じがする。ほんとうに差別されているのは、「そんなことはないだろう」と思えるような属性をもった人たちなのだ。たとえば、外国人の差別撤廃とか障碍者の差別撤廃とか、言いやすいだろ。言いやすくなっているということは、差別がほとんどないということだ。逆差別すら、場合によっては生じてしまう状態だ。「差別撤廃」と言いやすいところは、もう、じゅうぶんに「たがやされている」ところ……「その主張が通りやすいところ」だ。そうじゃなくて、言いにくい感じがするところには、差別がある。これがわかってないんだよな。佐藤のような、俗物は。だってそうだろ。どれだけ、障碍者の差別撤廃をうったえていたって、本人は、無職や引きこもりに、俗物的な差別心をもっているわけだからさ。俗物と書いたけど、「ぼんじん」と書いてもいい。普通の人……。普通の人がもっているような差別心がある。その差別心は当たり前すぎて、差別だと感じないのである。逆に「無職だっていい」「ひきこもりだっていい」と言うことには、抵抗があるだろ。抵抗はどういう抵抗なのか? 自分のなかに、そういう人たちを「下に見る」というしくみがあるから、肯定できないことになっている。
けど、もう、ひかりの時代がくる。ひかりの時代になれば、少しずつかわっていく。ぼくの役目は終わったかな。まあ、自分が差別されたということが、実際の原動力であることは、否定しないよ。けど、これが、ヘビメタ騒音でしょうじたことなんだよ。ぼくの個人史ではそうだ。ヘビメタで、働けない体になったから無職になった。ヘビメタで、ひととのまじわりが、なくなってしまったので、ひきこもりになった。これは、おのおの、定義に合致するという意味で、無職であり、引きこもりなのである。この無職であるという属性や、引きこもりであるという属性は、本来は、ぼくには関係がないことだ。……もうちょっと正確に言うと、 無職であるという属性や、引きこもりであるという属性から「ふつうのひとなかに」しょうじる、ある種の偏見と、ぼくがぼくであるという意味でのぼくという存在との関係を考えてみると、「ふつうのひとなかに」しょうじる、ある種の偏見はぼくという存在そのものとは関係がないのである。わかるかな? 勝手に、こいつら……じゃなかった、凡人……じゃなかった……普通の人が、それぞれ、「無職」や「ひきこもり」に対して、ごく普通の偏見をもっているということだけなのである。この偏見は、だれにでもある偏見だ。ぼくにだってあるのだ。ぼくは意識しているけどね。そして、その偏見にやられないようにしてきたけどね……。これは社会的な偏見だから、その社会に住んでいる人はみんなもっている偏見だ。みんながもっているのであれば、「偏見」ではないのではないかということが、言えそうだけど、その問題はここでは、あつかわない。みんながもっていて、みんなが、特に偏見だとは思ってない偏見……こういうものを、ぼくはあつかってきたのだ。あつかいやすいものをあつかってきたわけじゃない。もう、公民権をもっている「差別に関する言論」をあつかってきたわけじゃないのだ。わっかっるっかっな?
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きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、ヘビメタを鳴らし続けたら……そういう毎日が何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も……続いたら、だれもが、通勤できなくなるのに、本当にそういうことがわかってない。かりにぼくが、「誰もが通勤でなくなる」と言ったとしても、実際に経験してないやつは、そう考えない。そいつは、自分なら通勤できると考えてしまう。あるいは、蚊のことが現在に影響をあたえるはずがないという、まちがった考え方にとりつかれていて、そういうふうに考えてしまう。ばかなんだよ。こいつらが、ばか。
まったく、意味合いがわかってないんだよな。こんなやつら……。きちがいヘビメタがなかったら、相手にもしてやらないやつらなのに……。ほんとうに、ばか。思考力がない。人の立場に立って考えることができないやつ。そいつらが、俺のことをコミュ障だという。どうしてなら、エイリさんは引きこもりだからだ。引きこもりならコミュ障だという、まちがった考え方にとらわれているのだ。さらに、そういう考え方が間違いだということに気がつかないレベルのバカ。思考力のなさ。ほんとうに、きちがい兄貴にやられなかったら、こんなことになってない。さらに言っておくと、ぼくは別にたましいの学習のために、こういう環境を選んで生まれてきたわけじゃない。これも、そういう考えをもっている人は自動的にそう考えて、あほなことを言ってくる。たましいとか、うまれかわりということを考えてもいいけど、その場合でも、じつは、ランダムなんだよ。特に、意味がないわけ。ほんとうは、ぼくの環境が君の環境であった可能性もあるわけ。まったく、わかってないね。ある人がいたとしよう。その人がぼくの環境で育ったなら、やはり、通勤できないからだになる。ぼくだって、きちがい兄貴という「環境の要素」がなかったら、通勤できないからだにはなってなかった。ようするに、君だって、ぼくの環境なら、通勤できないからだになっていた。高校を卒業したとき、通勤できるからだだったということは、たまたま、『きちがい兄貴』という予想がなかったからだ。それなのに、まるで、自分が(エイリにくらべて)すぐれていると思って「人間は働くべきだ」と説教をしてしまう、底の浅いやつ。くそばか。こんなやつばかりの世界で、生きていたくないと思うのは、当然のことだ。佐藤みたいなやつは、そういうことを理解する頭がない。なんで、そこまで、横柄になれるのか。ばかすぎてはなしにもならない。
しかし、どうだ? 当時の状況を考えると、ほとんどの人が「佐藤さんのほうが正しい」と思ってしまうような状況だった。インターネットの発達で通勤できなくても、働けるようになったけど、当時は、働くというのは、通勤して働くということだった。もちろん、当時だって自営業というのはある。しかし、それだって、それなりの資本と社会経験(通勤歴)が必要だったのである。それなりの資本と社会経験(通勤歴)がないやつが、働けるような状態じゃなかった。当時は、働くというのは、通勤して働くということだったのである。