まじで、飢え死にでおどす社会が終わるよ~~。終わることは決定しているよ~~。問題は、移行期間と、移行期間の長さだ。移行期間の長さは、個々人の人生に決定的な影響をあたえる。けど、飢え死にでおどす社会は、そのうちに、おわる。
飢え死にでおどす社会というのは、働かないやつは飢え死にするがいいというコンセプトによって成り立つ社会だ。ようするに、「働かざるもの食わざるべし」が基本的なルールとして実行されている社会だ。こういう社会に生きてきた。
しかし、これは、そのうち、ほんとうに終わる。
成人したら、関係がない」というようなことが言われる。ようするに、二〇歳になった瞬間に、いままでのことは「なにしなる」ということだ。
しかし、これが嘘なのだ。
生まれの格差というのは、時間の経過とともに、拡大していく。これはもう、幾何級数的に拡大していくと言っていい。
どういうことかと言うと、「生まれの格差・下」の人は、悪い出来事を経験して、悪い出来事がつみかさなり、「生まれの格差・上」の人はいい出来事を経験して、いい出来事がつみかさなるということだ。
時間の経過とともに、経験がつもっていくのである。悪い経験は、次の悪い経験をうみだす下地になるので、幾何級数的に、格差が拡大していく。生まれ落ちた時点の「格差」がそのまま続くようなことを考えている人たちがいると思うけど、それは、ちがう。
生まれ落ちた時点の格差が「格差」がひろがっていくのが、この世なのである。この、悪に支配された世界なのである。最初から、拡大するようにできているのであって、最大限の努力をしても、拡大していく。圧倒的な力で拡大していく……そういうふうにできている。
「意志」の力で、拡大を最小限にするということもできない。「意志」の力で、逆転するなんてことはもっとできない。この、意志の力というのも、じつは、優位に立つ人が、作り上げた幻想なのだ。
ていのいい嘘なのだ。
成功者はいるというかもしれないけど、詐欺行為で成り上がったような人たちばかりだ。
こういうのは、生まれの格差を克服したとは言えない。それに、ぼくが言っているのは、親の格差とおカネの格差だ。このふたつをあわせて、「生まれの格差」と言っている。
言霊や認知療法の理論、アドラー心理学の理論、意志教は、じつは、悪い社会を維持することに役立つ。悪い社会をこわすような要素というのがない。これにさらに、寄付行為と「経済的に成功しさえすればいい」というような意味での「成り上がり思考」も、悪い社会をこわすような要素というのがない。
生まれの格差が、幾何級数的に拡大する社会を「維持する」のに役立つだけで、生まれの格差の問題を解決することはない。これは、ワクチンとおなじような構造をもっている。(ワクチンに関してはここでは書かない)。
ともかく、努力で、格差を縮めることができるというような考え方は、じつは、格差がある社会を是認して、維持することにだけ寄与する。
個人史的には、不利な状態で生まれた人は、不利な出来事をたくさん経験するようにできているし、有利な状態で生まれた人は、有利な出来事をたくさん経験するようにできている。
逆はない。
常に、不利な状態で生まれた人には、不利で不愉快な経験がつみかさなり、有利な状態で生まれた人には、有利で楽しい経験がつみかさなるようにできている。
もちろん、「悪が支配する」社会だから、転落はある。他人をおおく蹴落とした人が勝ちというルールが成り立っている社会なので、有利な状態で生まれても、蹴落とされる可能性はある。
なので、「有利な状態で生まれた人には、有利で楽しい経験がつみかさなるようにできている」とは言えないと考えるかもしれないが、それはちがう。
有利な状態で生まれても、蹴落とされる可能性はあるけど、その可能性は、不利な状態で生まれた人が蹴落とされる可能性よりも、低いのである。こういうところで、有利な状態で生まれた人のほうが、有利なのだ。
地合いが「黒」であるといこうことは、非常に重要なことだ。しかし、地合いが黒であることは、たとえば、努力について語られるときは、無視されてしまう。
つねに、そういうトリックがある。努力という軸を考えた場合、努力をする人間と努力をしない人間という二種類の人間にわけられる。そして、努力をする人間についても、ものすごく努力する人と、たいして努力しない人の段階ができあがる。
ようするに、努力という軸考えた時点で、努力という軸だけで、すべてのことが「努力のありなし」や、「努力の段階」で、説明されることになるのである。「地合いが黒」であることは、少しは関係があるかもしれないけど、関係があったとしても、たいして関係がないということで、無視されてしまう。
生まれの格差に関しても、少しは関係があるかもしれないけど、関係があったとしても、たいして関係がないということで、無視されてしまう。「努力の軸」だけを考えれば、ほかのことは、はるか後方にしりぞいて、影響をあたえないものになってしまうのである。
しかし、実際には、努力の軸よりも、生まれの格差や、地合いが黒であるか白であるかということが、影響をあたえる。その人の人生や現在の立場に影響をあたえる。努力の軸というのは、生まれの格差の一要素でしかない。
努力の軸というのは、地合いが黒のなかで、意味をなすので、地合いが黒であるということのなかに、含まれている。
ようするに、努力の軸のほうが、生まれの格差や地合いが黒であるということよりも、小さいのである。努力の軸のなかに、生まれの格差や地合いが黒であることが含まれているのではなくて、生まれの格差や地合いが黒であるということのなかに、努力の軸が含まれている。努力の軸というのは、人生の格差や、地合いが黒であるということを前提にした話なのだ。
どっちが前提なのかということは、ものすごく重要なことだ。
しかし、努力について語っているときは、努力ですべてが決まると言って、どっちが前提なのかということについては、話さない。
あるいは、文脈のなかで無視をする。たとえば、生まれの格差などというものは、努力でねじ伏せることができるものであるということが言われる。おなじように、地合いが黒であるということも、たゆまない努力でねじ伏せることができるということが言われる。
まあ、「地合いが黒」なんて表現は使わないけどね……。努力教徒は、努力をすれば「そんなのは」どうにでもなるという主張をする……。努力と言ってきたけど、努力を「意志の力」と言い換えてもまったくおなじことが成り立つ。意志教徒は、意志が強ければ「そんなのは」どうにでもなるという主張をする。
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地合いが白になれば、そもそも、他人を蹴落とす必要がなくなる。飢え死にするかもしれないから、働かなければならないと思うことがなくなる。
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ワクチンに関してはほかのところで書くことにした。
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