きちがいヘビメタの破滅的な影響についてみんな、理解してない。わかってない。完全にわかってない。あの空間の意味がわかってない。あの時空の意味がわかってない。実際に鳴っているとき「どういう気持ちになるか」わかってない。実際に鳴っているとき「どういうからだの状態になるか」わかってない。
俺が、たとえば、やりもしないで「元気だ元気だと言えば元気になる」というようなことを否定していると思っているのか? 俺の数千日の努力がわかってないな。あの体が、わかってないな。あの体の状態がわかってないな。言霊思考で言ってしまうけど、ポジティブ思考も認知療法的な考え方もおなじだ。おなじなんだよ……。
それらは、しつこくしつこく、試されてみて、負の効果しかなかったことだ。きちがいによるヘビメタ騒音だと、そうなのである。けど、「そうなのである」ということが、実際にきちがいにやられた人じゃないとわからない。しかも、そのきちがいが……となりで鳴らしているきちがいが……家族の一員だという人じゃないとわからない。そして、自由に引っ越すことができない、子供……未成年時代に、そういうことを毎日やられたという経験がない人にはわからない。
もう、全部がわからない。
だから、「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言をしている人は、俺がそういうことを試したことがない……と思って言っているわけだよ。あるいは「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言をしている人は、そういう方法があるということを、俺が知らないと思って言っているわけだよ。
……けど、たとえばの話だけど「さんざんやってみたけどだめだった」というような話は、そういうことを言う人は、のぞんでいないのである。たいてい、そういうふうに言われると機嫌が悪くなる。その人にとっては、「そんなことはない」と思えるようなことなのである。
これ……、たとえば……、じゃあ……『知らないふり』をした場合どうなるかと言うと、「どうして、ためさないんだ」「まず、やってみることが必要」などと言われることになる。
その時点で、「やったけどだめだった」ということを言えば、「やり方が悪い」などと言われるのだ。けど、そういうことを言っている人は、俺とおなじぶんだけヘビメタ騒音を経験したわけじゃない。
なので、ちがうところにたってそういうふうに言っているだけだ。
ともかく、そういう助言を自分がしたあと、相手があいかわらず「つかれた」「くるしい」と言っていれば、「だから、元気だ元気だと言えば、元気になると言っているだろ」と言いたくなるではないか。
言いたくなるようなパーソナリティーの人なんだよ。
「せっかく助言してやったのに、試そうともしない」などと、不満をもつことになる。
……ヘビメタ騒音十五年間で、ぼくのからだはつかれはてているので、「つかれた」と言うわけだよ。
だから、その人にとっては、自分が「元気だ元気だと言えば、元気になる」と助言してあげたあともずっと、そういうふうに言っている……ということで、俺に対して不満をいだくことになるんだよ。
けど、じゃあ、「ヘビメタ騒音期間中に、毎日やったけど、くるしくなるだけだった」ということを言ったって、そいつは、認めない。「だれでも」「どんなばあいでも」言霊は成り立つからだ……。
その方法は、その人のなかでは、「だれでも、どんな状態でも成り立つ」ということになっているのである。それに「傷がつく」というのが、いやなのである。
そういう話をされると不愉快になるのである。「どんな場合でも有効だ」と思っているのに「こういう場合は、有効じゃない」と言われると、「傷」がつく。
「俺は、元気だ元気だと言ったら元気になった」「どんなくるしいときだって、元気だ元気だと言えば、元気になる」「元気だ元気だと言ったのに、元気にならないということはない」「そんなのは、エイリさんがおかしいんだ」「そんなのは、エイリさんのやり方がまちがっているのだ」「エイリさんの努力の方向がまちがっているからダメなんだ」「言い方がまちがっているからダメなんだ」「何回も何回も言わないからダメなんだ」と言ってくる。
これは、宗教的なあらそいなのである。
ぼくがどれだけ、「元気だ 元気だ」「だいじょうぶだ たいじょうぶだ」と言ったにしろ、ヘビメタ騒音が鳴っている以上はだめなのだ。……こういう状態が実際に成り立ってしまったという経験をぼくは持っている。けど、「元気だ元気だと言ったのに、元気にならないということはない」と言った人は、そういう経験をもってない。
ぼくは、自分の経験から、「元気だ元気だと言っても、元気にならないときがある」ということを言って、相手は「元気だ元気だと言えば、だれもが、どんな状態でも元気になる」ということ言っているわけだから、あらそいがしょうじているということになる。あるいは、認識の違いが生じているということになる。
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