いろいろな情報が流れているわけだけど、まず、どんな情報も、一度は仮説として受け入れるんだよ。そして、現実の現象を説明できるかどうかを考える。一連の現象は、いろいろなところにつながっている。こういう場合、個々の仮説は、系をなしている。系をなしているので、無力な仮説は無力な仮説につながっているし、有力な仮説は有力な仮説につながっている。
だいたい、現実をどのように把握しているのかというと、それは、自分が『直接』見聞きしたものと、メディアを通して、見聞きしたものがある。メディアを通して、見聞きしたものは、けっきょくは、仮説にすぎない。有力な仮説も、有力な仮説にすぎない。
けっきょくは、有力な仮説にすぎないのだけど、有力な仮説は無力な仮説よりも信頼できるのだ。……こういうことだ。
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それなら、自分が『直接』見聞きしたことは、ほんとうに、信頼できるかというと、信頼はできない。まず、自分の五感に影響をうけない、「現実」というのが、設定しにくいのである。これが、たしかたものだとは言いがたい性質をもつものなのである。「そと」にある「現実」はたしかな現実で、この現実が現実であるということは、個々人の認知に関係かなく成り立っているということ自体が、仮説だ。ぼくは、個々人……あるいは、人間の認知に関係がない「たしかなる現実」あるいは人間の認知に関係がない「たしかなる外の世界」というものは、話をしやすいように、一時的にそういうふうに設定したものだと考えている。だから、そういう意味では、「たしかなる現実」仮説のひとつだ。けど、そういうことを言ってしまうと、哲学的な話になってしまう。いちおう、上に書いたような文章を書くときは、「現実は現実だ」ということで、打ち止めしておこうと思う。
まあ、これは、「それなら、自分が『直接』見聞きしたことは、ほんとうに、信頼できるか」という問いに関連して書いておいたことだ。