つまーーんない。
やっとだよ。やっと。やっと風呂に入れた。やっと、殺虫剤をまいた。しかし、どうするかな? 引っ越すしかないのだけど、エネルギーがたりない。じつは、今日は資源ごみの日なんだけど、時間内に行けなかった。じつは、なまごみもたまっている。じつは、プラスチックごみもたまっている。最近、起きる時間が、ちょうど、清掃車が行ったあと、だから、問題がある。はやめに起きて出しに行くということはできない。これができたら、出勤して働ける状態だ。通勤できるね。その能力を、きちがい家族によってはかいされた。俺は、もともとは、できるんだぞ。これ……。ほんとうに……。きちがい家族がヘビメタ騒音を鳴らさなかったから、その能力をもっているやつが、俺を侮辱する。「できない」と思ってバカにする。自分はできるけど、エイリさんはできない……。だから、俺のほうが能力がある。だから、俺のほうがえらいと勘違いしたやつが、いろいろと勘違いしたことを言ってくる。そういうことになってしまう。きちがい家族が、きちがい的な基準で、自分のやりたいことを、やると……何年間も、十数年間も、毎日毎日やると、やられたほうの家族が、能力をうしなうことがある。その場合、能力をうしなったほうの人(家族の一員)が、「よその人」から文句を言われることになる。「よその人」からばかにされる。「よその人」だって、100人中100人、おなじ状態で暮らしていたら、できなくなるのに、それがわからない。傲慢でばかだから、わからない。想像力がないから、俺の話を聞いても、わからない。自分は、できると思っているから、できない俺を侮辱してくる。「通勤ができない」……そんなばかなことはない。「たるんでいる」「あまえている」と言ってくる。こういうことになってまうんだよな。あの音の連続で、夜、眠れるわけがないだろ。それまで、普通に寝ていた時間、どうしても眠れなくなる。起きているときになっていたヘビメタ騒音の効果でどうしても眠れなくなる。普通の人は、俺とおなじ経験がないので、それがわからない。起きているときになっていた音で、夜、眠れなくなるなんてことはない……と、悪い頭で思っている。「鳴り終わったら関係がない」「眠る時間に鳴っていなければ眠れるはずだ」と、悪い頭で思ってしまう。これは、本当に悪い頭だと思う。悪すぎる。まあ、経験がないだけかもしれないけど。ぼくとにとって、それがどういうことなのか、ぜんぜんわかってないんだよな。説明すればわかるかというと、わからない。説明をすると、「いいわけをするな」とか「なきごとはいい」と言ってくる。おまえだって、きちがい親父の家に生まれて、きちがい親父にやられて育ち、きちがいおやじとおなじ頭のクセをもっている、きちがい兄貴に、ずっとずっと、自分がこの世で一番嫌いな音を、新規りょりで鳴らされ続ければ、そういう状態になる。「できなくなる」。そういう経験がないから……長年の経験がないから……できるつもりでいるだけだ。「自分なら、たとえそういうことがあったとしてもできる」と思っている。経験してないから、そう思えるだけなのに……。自信をもってそう思っている。頭が悪すぎる。きちがい親父とか、よその家では絶対にならことができない大きな音でずっと、ヘビメタを鳴らし続ける兄が「いない」家で育った人は、実際にそういう家で育った場合、どういうことが起きて、どういうふうに疲弊して、できなくなっていくのか、わかってないだけだ。このハンディは、ほかの人にとってめちゃくちゃにわかりにくいハンディなのである。そして、絶対数も、少ない。はっきり言えば、ぼくが抱えているようなハンディと、発達障碍者が抱えているハンディが、ほかの人にとってどのくらい分かりやすいということをくらべれば、ほかの人にとっては、発達障碍者が抱えているハンディのほうが、まだ分かりやすというところがある。けど、このハンディを抱えていると普通に働くことはできない。普通に働くことができないということがどういう影響を与えるか、他人にはわからない、不可避的な理由で働けなくなった人じゃないとわからない。手短に言えば、発達障碍者のほうが、長く続くひどい騒音で一定の時間に起きることができない障碍者よりも、多い。発達障碍者のほうが、人数が多く、理解されやすい状態なのだ。『家族性』の睡眠障害なんて、理解されない。「家族」だから、理解されない。「家族なら言えばいいでしょ」「家族なら、言えばわかってくれるよ」というのが、こういうやつらの、言い分だ。信じていることだ。ぜんぜん、ちがう。こういう人たちが考えていることでは、ぼくの現象は説明できないのだ。認知療法はじつは、普通の人や恵まれた人が、普通の感覚に基づいて作った療法だ。前提がちがうのである。前提がちがうと、その前提を使って考え出されることも、ちがうということになる。けど、前提がちがうということを認知療法家やその信者は理解してない。理解できるわけがない。どうしてかというと、そういう理解をないことによって成り立っている療法だからだ。現象を説明でなくても、そんなのは関係がない……のである。非・合理的な思想なのである。非・科学的な思想なのである。最初から、理解しないことにしている療法なのだ。理解できないから理解しないように決めたということだ。そのほうが、とじた体系のなかでは、合理性が成り立つ。この合理性は、せまい範囲内での合理性だ。そして、その体系ないの言語で説明することができない現象は、無視する。説明できない現象があるということは、本来はまずいことなのに、まずいことだと思ってない。逆に、無視することで合理的だと思ってしまう。そりゃ、体系内のことは、過不足なく説明できるのだから、合理的だと思うだろ。その体系のなかで思考している人はそう思う。
(障碍者と書くと、睡眠障碍と書かなければならない感じがする。)
兄貴に関して言っておくと、ずっと、やめようと思えばやめられる状態だったのに、ずっとやめなかったんだぞ。 そんなの、すぐにやめられる。普通の家だったら、一日目の、一分目にやめなければならない音のでかさだ。家族に言われてもわからない。きちがい兄貴の場合、兄貴の友達に言われても、わからないんだよな。その感覚が、おやじとおなじなんだよな。脳みそがまった同じ。脳の構造がまったくおなじ。感じ方が同じ。態度が同じ。これ、ほんとうに、親父や兄貴を見たことがない人はわからない。うちにいるときの!!親父や兄貴を見たことがない人はわからない。「あんな態度ない」という態度で無視して、やりきる。相手がどれだけどなって言っても、言われたという記憶がまったく残らないんだよね。ほんとうに頭がおかしい。無視モード?でやったことは、やってないことだし、無視モード中に言われたことは、言われたことになってない。そういう、都合のいい頭なんだよね。ごく、自然にそうなっている。そうなると、俺が佐藤のような凡人から、説教をされることになる。佐藤は、普通の家とはちょっとちがうけど、きちがい兄貴やきちがい親父がいないという意味では、普通の家に育った人間だ。普通の家で生まれて育った人間は、きちがい親父やきちがい兄貴のことが、根本的にわからない。俺の話に疑いをもっている。そして、「だったとしても」関係がないという思考をしてしまう。「過去のことなら関係がない」「過去のことなら、今現在に影響をあたえることはない」と自動思考してしまう。
もう、こういう世界はやめようよ。こういう世界。
凡人が、特別に不利な人を、ぼろくそに言う世界。
凡人が、「自分は経験したことがない」とい理由で「そんなことはない」と思う世界。過小評価する世界。どれだけのことがおこなわれているか、わかってない。凡人すぎる。思考レベルが普通の人なので、わからない。俺の言っていることがわからない。自分が経験したことがないから、影響のでかさがわからない。影響の持続時間がわからない。わからないだけなのに、えらそうなことを言って!!!