いろいろと、悩んでいる。とどのつまり、楽しくない。モヤモヤした気持ちがある。あとは、これは本格的に説明しなければならないのだけど、海馬と視床下部がおかしくなっているんじゃないかなぁと思っている。騒音という物理刺激でそうなることがあると思う。
ひとことで言えば、気分の落ち込みなんだけど、これが、普通の人の経験している気分の落ち込みとはちがうみたいなのだ。あまりにも、期間が長い。気分の落ち込みというのは、単独では気分の落ち込みなのだけど、感情がうまく動かないということだから、普通の人といっしょにいると、あんまりいいことにならない。
ヘビメタ騒音がなければ、普通に対応できるのだけど、長期騒音で普通に対応できなくなってしまったのだ。どういうことかというと、興味や関心がうすれてしまったために、相手が言うことに同意できなくなってしまうのである。これは、どういうことかというと、たとえば、「ツーリングに行こう」と言われても、興味がない状態で「やりたくないな」「めんどうくさいな」「行きたくないな」と思ってしまうのだ。
きちがいヘビメタがなければ、「おもしろそうだな。よし、行こう」ということになるのだけど、そういう気持ちが、根本的なところで破壊された。頭がモヤモヤするとか、憂鬱とか、気分の落ち込みとかそういうこともあるのだけど、もっと、根本的なところで、興味がなくなっているのだ。もし、きちがいヘビメタが続かなければ、興味を持って、生き生きとやれたことが、やれなくなってしまった。これがでかいのである。でかすぎる。じつは、ダイヤから、「バイクを買ったから、ツリーリングに行こうぜ」と言われたのだ。ぼくは、「ふん」というような態度をとった。「興味がないな」「やりたくないな」「行きたくないな」と、全部のセリフを言わなかったけど、「行きたくない」とは言った。行きたくないのだ。「なんだ、くそ」というような気分になるのだ。それが、ヘビメタ騒音生活の効果だ。負の効果だ。これが、理屈でなく、そうなってしまうのである。ものすごく、くるしいことなのである。佐藤が理解できるようなことではないのである。そりゃ、だれだって「眠たいときはある」「やりたくないことはある」。しかし、そういうことが、そういうレベルではなくなる。「ヘビメタ騒音が毎日、鳴っていた」ということを説明したあと、それでも「人間働くべきだ」「過去のことなんて関係がない」「だれだって、つらい思いをして働いている」「だれだって、起きるのがつらいときはある」「誰だって朝はつらい」というようなことを言う人は、根本的なところがまったくわかってないのだ。
国語で言えば読解力の不足。読解力がまったくない。
これ、どうして、「ちがう」と言っているのに、そういうレベルの「困難」だと思うのだ??
自分だってつらい。自分だって困難を感じている。けど、がんばってやっている……。ヘビメタ騒音がないからだろ。「ぜんぜんちがう」と言っているのに、ほんとうに「ぜんぜんちがう」ということを無視してやがる。
おなじだと思っている。おなじだから、「そんな騒音は鳴ってたってたいしたことはない」「鳴り終わったら(もう影響がないから)関係がない」と思ってしまうのだ。「ぜんぜんちがう」と言っているでしょ。ほんとうに、読解力がないな。人の状態がわからないやつだな。ヘビメタ騒音のことを無視するな。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するな。……こいつら、ほんとうに……。こいつら……。
「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言っている人が、今現在、楽しい気持ちでツーリングができるのであれば、ちがうと思う。悪いけど、その人の「つらいこと」はたいしたことじゃないと思う。ほんとうに、水銀や放射能のように不可避的に影響をうける。長い騒音というのは、そういう効果がある。兄貴のヘビメタ騒音の場合、期間的にも長いし、一日のなかの時間も長い。
けど、「長い騒音」と言った場合、期間が長い騒音ということだ。ほんとうに、毒のように効くのである。だから、そういう毒のように効く長い騒音を経験したことがない人が、 「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言うのは「おかどちがい」だと思う。だって、その人は、その発言をするとき、楽しい気分でツーリングに行くことができるのだから。
もし、ぼくとおなじ経験をして、今も苦しんでいる人がいたとして、その人が「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」ということを、「あったとしても、そんなのは影響がなく、楽しい気分でツーリングに行けるはずだ」という文脈で、「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言うとは、とても、思えない。
この人らは、「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」ということを言う場合、「影響があったとしても、そんなのは、時間がたてばなくなってしまうし、影響をうけないぞと思えば影響をうけないですむ」という前提で、「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言っている。
その発言をするときは、その「つらいこと」の影響をうけてないのだ。そのつらいことというのは、長期にわたって、感情障害?を引き起こすような「つらいこと」ではなかったということだ。だから、「ちがう」。