ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしかった。いま、午後八時。きちがいヘビメタが鳴っていた。どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった。もう、言う前からずっと、我慢しているわけ。ずっと何回も何回も言っているわけ。けど、きちがいが、きちがい的な感覚で無視して鳴らす。きちがい兄貴だって、自分が鳴らしている音で、「ほかの音」が鳴っていたら、怒り狂う。「うるさい」と腹をたてる。そういう「音」だ。そういう音のでかさだ。これ、ぼくが、普通の音に対して、こだわって、うるさいと言っていたわけではないのだ。きちがい兄貴の耳がおかしくなるような音のでかさで鳴っていた。いわゆる、ヘビメタ難聴になった。きちがい兄貴は、自分の耳が悪くなるような音の「でかさ」で鳴らして、まったく、でかい音で鳴らしているという気持ちがなかった。本人は、普通の音で鳴らしていたつもりなのである。こういう感覚のずれ。自分が、でかい音で鳴らしたければ、絶対にでかい音で鳴らしているということを認めない、頑固さ。これが、きちがい兄貴のやり方だ。で、こういうやり方で、悪いことを、やったやつがもうひとり、うちにいる。それが、きちがい親父だ。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父の伝統を引き継いだものだ。「うちでは」あたりまえなのである。きちがいが意地をとおしてやれば、それが通ってしまう。当のきちがいは、「まったくやったつもりがないまま」なのである。こんなことが、成り立ってしまう「うち」というのはなんだ? これ、ほかの人は、わからない。わからないから、わからないまま、ものを言う。きちがい兄貴言えば、どうにかなるような感覚でものを言う。どれだけうるさい音で鳴らしていると言ったって、そんなにうるさい音で鳴らしているわけではないのだろうと思ってしまう。毎日、ずっと、家に帰ってから午後一一時まで鳴らされたら、ほんとうにこまるということが、わからない。自分のからだでわからない。だから、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、「そんなのは関係がない」と言う。ヘビメタ騒音生活というのが、並じゃないのである。このくるしさは、並じゃない。そして、ほんとうに、きちがい兄貴がいないところで、俺がほかの人から悪く言われるという構造がある。こんなの、ずっと毎日押しつけられていいわけがない。学力主義、学歴主義はあった。「生まれの格差」で「下」なのであれば、学歴であがっていくしかないという状態だった。……「こいつら、ほんとうに、ひとことをばかしやがって」と思う。いきなり、「こいつら、ほんとうに、ひとことをばかしやがって」ということばが出てきたけど、これも、この時代に生きた人じゃないとわからなくなることだろう。ほんとうに経験したことがちがうから、結果がちがうのに、経験してないやつが、好き勝手なことを言う。ほんとうに、そういう世の中だ。